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インタフェースに映る世界

By Hiroki Kamata | 2008年 6月 23日

秋葉原事件・加藤容疑者が「携帯書き込みサイト」にはまっていたというのが気になった。ほとんどTwitterのような書き込みで“自問自答”している。マクルーハン風にいえば、パソコンが「クールメディア」であるのに対して携帯は「ホットメディア」ということになるだろう。周囲はサムくなり、本人だけがアツくなる。壊れたコミュニケーション。最悪のユーザーインタフェース!

「人間は社会的動物」(アリストテレス)だが、それは先天的な性質ではない。

ヒトが社会性を獲得するのはインタフェースを通してであり、インタフェースとそこに映るビューは、一人づつ違う。そして同じ人間でも、その人生や日常の中で変わっていく。例えば「貧しさ」とか「豊かさ」というのはまったくの主観的なものだが、「社会」の側では気楽に定義し、固定化する。加藤容疑者は、この誰もが「自由(選択)」を享受しているはずの社会で与えられた「負け組」というレッテルを受け容れ、そして自爆した。筆者は、「不毛」の地に住む「貧しい」人々が、先祖の血統を誇り、隣人とともに毎日生きられる幸運を感謝している姿を見たことがある。

ヒトは生まれながらにして自由ではない。生まれる時代も場所も両親も選べない。生まれ落ちた途端に、いつかは死ぬ運命にある。そんな生き物がなんで「自由」なものか。生まれたときには100%不自由な状態で、ヒトとして成長する(社会性を獲得する)につれて、何物かからの、何がしかの自由を自覚的に獲得していくしかない。宗教が強かった時代、ヒトが成長する過程で、まず人間の無力さについて徹底的に教え込まれた。一神教における「神は偉大なり」とは、人間は無力だということだ。“無神教”ともいえる仏教は「諸行無常」を説き、アニミズムは自然に神性(人間への優越性)を認める。子供の頃に、この最も重要な真理を教えることがいかに重要なことか。

「自由」と「市場」という現代の世俗宗教は、現実にはどちらも「非対称性」を前提としているのに、「公正な競争」がいつでも可能であるかのような万能幻想を与えている。これはアメリカのほうが甚だしく、だから秋葉原のような事件が頻発する(銃を使う自由まであるところがすごいが)。ヒトは万能感に浸った時と、それが壊れた時がいちばん怖い。前者はラリっており、後者はパニックに陥っている。アメリカは宗教が頑張っており、それが暴走を(あるていど)防いでいるが、日本はそれがない。

ヒトが「世界」や「社会」の「存在」をどう「認識」するか、というのは、心理学や精神医学という以上に哲学的、あるいは宗教的なテーマだ。携帯と携帯サイトのような極限(局限)化されたインタフェースで何が見えるのか、ぜひ専門家に聞きたい。

*アキバ事件についての論評では、「無差別殺人はいつ起きるか?─ルワンダから「秋葉原」を考える」伊東乾、NBOnline、6/18/08が「社会修復的正義」という論点を提起していて興味深かった。

**フランスのNouvel Observateur誌は、秋葉原をQuartier d’Animeと書いて、犯行とアニメ文化を関連づけていた。「とてつもない」次期総理のコメントがほしい。

Topics: 近時片々(時論) | No Comments »

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