議論なき社会の擬似テロリズム
By Hiroki Kamata | 2008年 7月 20日
「日雇い派遣」を原則禁止する方向での労働者派遣法の見直しが確実になっているという。読売新聞(7月16日朝刊13面、左山政樹・編集委員)によれば、これまで派遣法は一貫して適用を拡大しており、労働政策審議会ではさらに「規制緩和」に向けた作業が行われていた。それが「秋葉原事件」で一転して…ということだ。方向の是非はともかく、これはまともな展開ではない。暴力が「道理」を通す事態ほど、社会にとって怖ろしいことはない。まともな判断力を失った人間による、一種の自爆テロという非政治的暴力こそ、最も強力なテロリズムということになる。これも議論を手抜きした結果であり、嫌な前例を残した。「審議会の議論はいったい何だったのか。話し合いでは何も有効な手立てを打てない、という誤ったメッセージを出すことにもなりかねない」という新聞の批判は当然だろう。明らかに、審議会は現場の状況や、決定が及ぼす影響をまともに検討することなく、最初から結論を持って動いていた。欲に目が眩んだ連中の要求を、深く考えずに受け容れた、正当性のない決定だったからこそ、理不尽な暴力に恐怖を覚え、動揺して今度は簡単に政策を変更するのだろう。そこでも議論はほとんどない。権力に与る者が議論を軽視するようでは、同じ過ちが繰り返される可能性が高い。暴力は議論を軽視するところから生まれるものだ。
民主主義とは、議論を通じて問題を社会的に共有し解決する、かなり微妙で高級な「仕組み」であり、立法、行政、メディア、司法を中心に、専門家、利害関係者が有効に参加してはじめて機能する。選挙や採決は本質ではなく、合意形成プロセスの一部だ。能率は当然よくないが、それが民主主義のコストである。社会が人々の生活に対する関心を共有している、と納得されれば、長期的には社会にとってプラスとなるということだ。それだけに、コミュニケーションのプロセスをリードする専門家が重要になる。メディアが専門家を軽視し、しろうとの「議論」でお茶を濁せば、民主主義など機能しない。米国のマスコミは(投稿欄以外では)絶対に素人に議論させたりはしない。
誰もが認めたくないことだろうが、テロリズムというものは政治的目的を達成する手段としては、じつはかなり有効である。その有効性を低めるためには、可能な限り無視するしかない。つまりつとめて不感症になるのだ。英国はアイルランドを支配する代償として、少なからずテロの被害を受けてきたが、政府も国民も、ほとんど「平然」を決め込んでいた。爆弾被害などは交通事故より少なく、軽微だと思えばいい。「テロとの戦い」はスパイを潜入させての静かなものとなる。
逆の例は限りなく多い。わずか一発(正確には2発)の銃声が世界大戦を惹き起こしたこともある。第一次大戦はサラエヴォでのオーストリア皇太子夫妻暗殺で始まった。戦争の結果はテロリスト(セルビア独立の英雄)の期待通りとなったが、世界を変えるほどの死者を出し、さらにもう一つの世界戦争を準備することとなった。この場合、ほとんど約束事のように、テロは戦争の引き金を引いた。忍耐・冷静を失った結果は斯くの如し。
2001年9.11以来の「テロとの戦い」も、テロリストの期待通りの展開となった。世界で最も開放的な社会=市場であったたアメリカが、わずか1年ほどで、移民はおろか入国すら面倒にして、人権やプライバシーを保護しない国になってしまったのだ。社会が変わってしまった、とは世界を知る多くの米国人の抱く感想だろう。これこそテロリストが望んだことでなくて何だろう。20世紀の初頭、世界の富、技術、文化を集積していた欧州は、「一発の銃弾」で狂気にとり憑かれた結果、あまりに多くのものを喪った。ほぼ1世紀の後、米国も「唯一の超大国」の地位を喪った。(中国やEUにとっては、相対的に大きな利益がもたらされたことになるが。)
わが国も、テロリストには弱かった歴史を持っている。錆びついた民主主義を機能させるためには、今を措いてないような気がする。
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