現代の貧乏神:お笑い芸人
By Hiroki Kamata | 2008年 8月 12日
数えたことはないが、テレビに登場する「お笑いタレント」の総数と登場時間が、年を追って増加していることは間違いない。もともと日本のテレビは万邦無比なところがあるが、これも世界的に見てかなり奇怪な現象だ。彼らはもちろん貧乏神ではないが、その「使い魔」とみて警戒すべきだと思う。
「お笑いタレント」が増える最大の理由は、テレビが最も嫌う「間」が生じる瞬間を確実に潰してくれる、それもかなり安いコストでやってくれるコスト効果だろう。彼らの増加は、広告収入が減り、番組にコストがかけられない“窮乏化”と裏腹の関係でもある。飽きられるのでやたらには使えないはずだが、需要があれば才能は次々に発掘されるもので、民放からNHKに至るまですべてに供給してなおリザーブもあるほどの状況が現出された。だからいまの「お笑いブーム」は、かつてのブームではない。笑えない時代に「お笑い」が時間を埋めていくのは、不況期の淘汰圧が働いた病的な現象なのだ。
別に「お笑いタレント」が悪いというのではない。それどころか、厳しい競争を通じて言語能力を磨き、ハングリー精神も旺盛な彼らに敬意を抱いている。大竹まことや小島よしおなどは尊敬してもいる。休みも取れず、時間外手当ももらえず、医療も満足に受けられない“名ばかりセレブ”は、“非正規”時代の象徴でもある。しかし、だ。もちろん彼らのせいではないが、スポーツから政治、科学、社会問題までを「お笑い」に変え、本来の専門家を駆逐し、人々に考えさせる「間」というものを潰してまわるとすれば、テレビに出まくって頑張れば頑張るほど、社会的に好ましい存在ではなくなってくる。
「笑い」ほど個別的なものはない(涙のほうはグローバルだが)。多くは翻訳不能であり、メディアにおける「笑い」の突出は、グローバリゼーションと逆行する国内の「内向き」化の象徴といえる。「間」が持てないのは、不安の裏返しで明日が怖いということだろう。テレビで発信され、共有される「空気」としての笑いを人々が読もうとする姿は哀しいものがある。つらい時代に、笑いは人間として生きぬくためのよすがともなるが、それは“工業的”なものではないだろう。陳腐な言い方だが、放送は(新聞と違って)自由に何でも流していいビジネスではない。駐車料程度の金額で公共の電波枠を使い、商売をやらせてもらうからには、スポンサー以上に尊重すべきものがあるはずだ。
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