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日本柔道=柔術からの再創造

By Hiroki Kamata | 2008年 8月 14日

いつの頃からか、マスコミによって柔道は、オリンピックの時に金メダルを稼いでくれる便利な存在に貶められていた(言ってみれば“ナショナリズムカード”か)。だから容易に勝てなくなると、ルールや判定がおかしいの、一本に拘るのが日本柔道だの、さらにはガイジンには武道というものが分かっていないだの…といった軽薄な“原因分析”でお茶を濁してきた。柔道界も(心ならず?)スポンサーを連れてきてくれるマスコミと親しく付き合ううちに、虚構と現実が区別できなくなってしまった。そしてついに来るべき日が来た。

柔道も剣道も、武術(古武道)にルーツを持ちながら、明治期に教育用スポーツとして創始されたもので、いわば“スポーツ的武術”と言える。「人格」の陶冶という理念が入っているから、勝敗より(あるいはそれとともに)心を重視する。現在もこの精神を厳格に守っている剣道の試合を見ていると分かるが、剣士、審判もじつに端然として、スポーツと思えない重厚さと品格がある。所作は古典芸能に通じるものがあり、それに魅せられる外国人も多い。

柔道は、これに対してスポーツ化の徹底によりオリンピック競技となることを選択した。創始者(嘉納治五郎)自身の選択だ。しかしそれにより柔道が、“スポーツ的武術”から、レスリングやテコンドーなどと同様の“武術的スポーツ”に変質したことを、どれだけの日本人が気がついていたか。「心」を重視するのはいいが、それが万人を納得させる根拠でルール化されない限り、競技の中で淘汰されていく。それに商業主義は、武術の「心」もスポーツのルールもを大いに乱す。商業主義に振り回されないようにするには戦略や交渉術もないと空洞化してしまう。

ポイント制が悪いように日本人が言ったとすれば、海外の柔道ファン(日本より圧倒的に多い)にとっては言いがかりに過ぎないだろう。ならば日本は別の「柔道」をやっていればいいだろう、と。ポイント制はスポーツの必然で、国際柔道は改善に熱心であったと思う。それによって柔道人口が広がってきていることが成果を証明している。

日本人だけが「一本」に拘るかのような“被害妄想”も見苦しい。強い選手はほぼ例外なく「一本」を取りに来る。それで試合が止まるからだ。今回は多くの日本選手が「一本」で消えた。しかし「一本」で決まらないなら面白くない、というのであれば、「KOでなければ」とか「フォールでなければ」と同じで、単なる趣味でないのなら、じつは柔道も武道もどうでもいいと思っている連中の雑音に過ぎない。日本のマスコミが武術や教育的スポーツを重視するならたいへん結構だが、その報道姿勢には「武術」への理解のカケラもない。そもそも、勝敗を絶対視することは、武術はおろかスポーツの精神ですらない。とりわけ武術は安っぽいドラマや絵にはなじみにくい。ましてや商業主義とは敵対的だ。

筆者は、慶長期に関口柔心などによって大成された日本の柔術を尊敬するし、その精神や知恵が凝縮された「型」がなるべく多く日本柔道に生かされ、国際ルールにも反映されることを願っている。例えば、士道の精神に立てば、勝ってピョンピョン飛び跳ねるが如きは武士ではない(フェンシングの勝者も安っぽい“自己愛ポーズ”をやっていたが、これも騎士や紳士の武術から離れきった証拠だ)。

日本柔道はとうとう“再建”されなければならないところに来た。関係者には、日本が見失ってきた柔術の資源をいま一度再発掘し、技や稽古を研究開発していただきたいと思う。現場での創造があれば、中高校生の入門も増えるだろう。もちろん、外国の強い選手、優れたコーチに学ぶ(分析する)ことも絶対に必要だろう。伝統としての武術は、最強の敵に直面しながら、つねにギリギリのところで再創造されてきた。創造を伴わない伝統は、すでに使い尽くされ、あるいは空疎な精神主義に堕している。このまま精神主義に逃げ込めば『宮本武蔵』の「吉岡道場」のような結末になってしまうだけだ。

Topics: 近時片々(時論) | No Comments »

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