「メダル」とスポーツの尊厳
By Hiroki Kamata | 2008年 8月 24日
「米国になくてジャマイカが持っているものは、陸上競技への尊敬の念だ。われわれは以前よりそれを持っていないように思うし、ジャマイカは陸上競技を愛している」*(米国陸上界のトップコーチ、ボブ・カーシー、8月21日)
「競技への尊敬の念」とは含蓄のある言葉だと思う。今回の五輪の結果は、日本人にも野球(たぶんあらゆる勝負事)への尊敬の念が薄れていたことを教えてくれた。「金メダル」至上主義ほどスポーツ(と競技者)を馬鹿にするものはない。そもそも「結果がすべて」なら試合など見ないほうがいいのだ。WBC 2006での王監督は、野球を心から尊敬し、野球ができる喜びを発散させていた。選手が存分に戦えたのは、そのためだったと思う。今回は最初からおかしかった。「金」が選手を委縮させ、プレーにならなかった。監督は、五輪野球の戦い方はおろか、ルールや環境も知らず、最低の仕事しかできなかった。
競技への尊敬の念は、競技者への尊敬の念とイコールだと思う(テクノロジーへの尊敬の念が、技術者に対する尊敬の念とイコールであると同じだ)。競技者は、所与の条件のもとで勝つために知恵と力を尽くすが、名のあるゲームであってもなくても、リスクとプレッシャーを背負って戦う。選手としては、その時に「プレーできることに喜びを感じられるか」どうかに意味があるはずだ。選手に「結果がすべて」などと言わせる監督は最低だ。
「自分のプレーができなかった」という(昔は考えられなかった)言葉が流行っているが、うまくいってもいかなくても、それを「自分のプレー」と認められない根性は、大人のものではない。スポーツは、その日のために、そしてその日に(もちろん主観的に)ベストを尽くせたかどうかだけを問題にするしかなく、結果はつねに天にある。ブラジル・サッカーのロナウジーニョは「銅メダルにも誇りを持っている」と語った。オトコである。
そもそも野球は五輪になじまない。野球になじみのない国で行う、観客のいない野球は野球ではない。国内リーグを優先し、五輪では若手に機会を与えるという米国MLBの方針は、じつに賢明なものだ。日本でも、かつて五輪は社会人野球の目標であり、1988年のソウルでは野茂英雄が華々しくデビューした。シーズンの真っ最中に「プロ野球ドリームチーム」を送って金メダルをという発想自体が、どれだけ野球というスポーツ(ビジネス)に有害かは自明なはずだ。不思議なことに、この正論を吐いたのは、野球界では渡邉恒雄くらいではなかったかと思う。
野球という、日本にとっての貴重な財産を、たかが「メダル」ごときのために賭けて平気な無神経と能天気が、勝負の怖ろしさを知る一流選手たちを委縮させた。マスコミの担いだ神輿に乗った監督の愚かさも信じがたい。勝負の世界は厳粛で、計算づくのショウとはわけが違う。勘違いしきっているマスコミから選手を守るのが第一の仕事だったはずなのに。「金メダル以外要らない」などというのは傲慢の極みだが、もともと乗せられやすい性格がメディアと増幅しあった結果なのだろう。
すべてこの世はゲーム。だからどんなゲームでも尊敬すべきだ。プレーヤーは尊敬すべきだし、一流のプレーヤーは特にそうである。尊敬できないのなら、メダル自体には(原価以上の)価値はない。
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