小泉改革と「ぶっ壊れた」日本
By Hiroki Kamata | 2008年 9月 26日
引退を表明した小泉純一郎は、まことに稀有な政治家だった。「自民党をぶっ壊す」と宣言してやってのけた。それも「衆院の絶対多数」という(皮肉な)おまけをつけて。しかも彼の「改革」はさらに徹底したもので、日本社会のインフラを「ぶっ壊し」てしまった。熱いようでじつはクールな、この悪魔的ニヒリスト、アナーキストは、あまりに大きなものをわれわれに残した。
現在の自民党は小泉以前のものではない。地域と政治のエコシステムを断ち切ってしまったので、TVと創価学会が味方にいないと選挙に勝てなくなった。小選挙区導入以来、空洞化していた派閥の遺制を壊したので、日本的なリーダー育成・選抜システムもなくなった。残されたのは、“家業としての政治”を行う2世、3世ばかりで「リーダー」にはほど遠い。米国のブッシュ現大統領もリーダーではないが、優秀なスタッフが「殿様」を支えており、システムとしてのリーダーシップは文句なく強力である。
小泉は「魔術的リアリズム」で、利権や派閥、永田町に官僚主導など、日本政治の旧弊やタブーとされてきたものを「ぶっ壊した」。それらは、じつに呆気なく壊れた。ベルリンの壁、赤の広場のレーニン像の場合のように劇的ではなかったが、呆気なかった。それらと同じく、「市場」が自由と繁栄をもたらすという、「社会主義」の安定=停滞に飽きた人々の間に生まれた新しい信仰の熱気が、体制の神話を打ち砕いたわけである。
「改革」は道半ばであると言われる。国の「借金」は減っていないし、国内経済も活性化していないではないか。しかし、それは小泉改革を誤解している。もともとそんなところに眼目はなかったのだから。改革はすでに完成されている。
「日本的経営」に終止符を打ち、それまでの正規雇用を3分割して、3分の2は非正規雇用に替えるという、世界にも例を見ない壮大な実験は、非正規という半失業労働者の激増(500万人が正規から非正規に移行)という成果を上げた。社会保障費の増額に歯止めをかけ、セーフティネットの多くも外して「市場」に任せた。資本主義は初期の“野生”を取り戻した。
「戦後最長の景気拡大」は、円安と労働分配率の低下、輸入デフレに支えられた「飢餓輸出」によるものだった。内需など最初から当てにしてないのだから、「実感のない」のは当然である。それどころか、労働者=消費者の懐が傷めば国内消費は向上しない。喧伝された“富裕層の消費効果”も幻だった。
米国投資銀行やAIGが強力に要求してきた郵貯・簡保は民営化寸前であり、かなりの個人資産は海外に移動した。社会保障に頼れず、貯蓄率が高かった日本で、貯蓄を持たない世帯が4分の1に増加した。「金融立国」という奇妙なスローガンのもとに、貯蓄を投資(リスクマネー)に導く政策は成果を上げている。リスクマネーを追ったAIGもいまや“国有化”された現在、その資産の行方が気になるところだが。
無料にすべき(と法律に書いてある)高速道路の民営化までやってしまった。借金を外し、利権を民営にする。これは米国でも例を見ない、民営化の最先端だった(競争=市場のないところを民営にするという発想がすごい)。罰当たりな名前を付けた「三位一体改革」は地方への再配分を絞った。自民党の存在意義でもあった利益誘導型政治の根を絶った勇気は称賛するほかない。やり残した宿題は、消費税引き上げと「ホワイトカラー・エグゼンプション」(残業代召上げ)くらいなものだろう。
さて、これからわれわれが直面している問題は、日本的市場主義がもたらした貧困、技術の停滞、人心の荒廃から、どうやって社会を立て直すか、ということにならざるを得ない。それは創造的な技術(ビジネスモデル)に期待したいが、新しい技術が機能するかどうかは、じつは企業や社会の相互信頼を必要とする。戦後復興が可能だったのは、旧い体制がリセットされたと同時に、敗戦と焼け跡で運命を共有した人々の連帯意識があったからである。コップの中の「偏差値と競争」で育った団塊世代やそれ以後の世代に、ほんとうの連帯意識(チームワーク)は機能するのか。それが一番大きな問題だろう。
Topics: 政治・経済・ビジネス, 近時片々(時論) | No Comments »