「世界大恐慌」を生きる
By Hiroki Kamata | 2008年 10月 10日
不思議なもので「世界大恐慌」が始まって以来、内外の新聞・雑誌を面白く読めるようになった(1929年にはインターネットはなかった)。わが身から出た錆である小「恐慌」はすでに経験済みであり、今回の事態も数年前から予測していたことだからだ。なんにせよ、歴史的な大事件に接することができたことは嬉しい。とくに若い頃、マルクスを齧った者としては。
「…今後数世代にわたり納税者に大きな負担を課すことが、デフレを食い止め、アングロアメリカ流資本主義の名残を少しでもとどめようとするここ2週間の必死の努力の代償となりそうだ。」(John Plender, Financial Times 9/20-21)
邦訳=「岐路に立つ米国型資本主義-民間の不良債権が国の債務に」日経ビジネス10月6日号
英国人の辛辣さは、こういう時ほど冴えを見せる。日本では認めたがらないことだが、世界はすでに1929年以来の「大恐慌」に突入した。カネがカネを生む(イエスもムハンマドもきつく戒めたことだ)という時代は、少なくともあと一世代以上は来ないだろう。これは経済が正常に復帰したということで、嘆くには当たらない。犠牲が大きすぎたこと、まさに悪魔的な所業で莫大な財をなした当事者たちが責任を問われそうもないことだけが残念だが、それはいつものことだ。
今回、感心させられたのは、90年代以降の「アングロアメリカ流資本主義」が、ほとんど(今回消滅した)投資銀行業の粉飾決算に牽引されていたこと。営業キャッシュフローの巨額赤字を借入金で埋め合わせつつ、連結対象外の子会社を使ったデリバティブ取引でさらに巨額な「利益」を上げ、簿外取引でBS上では高額の利益を計上する、というやり方で、これはわが国のバブルとは比較にならない。AIGも、ヨーロッパの大手銀行も、同じく「簿外取引」で巨大なリスクを冒していたのである。これを合法化したことが、「大恐慌は絶対に再現しない」という信仰を打ち砕いた理由である。
「『粉飾資本主義』が世界を滅ぼす」、林 總+黒木 亮、NBonline 10月9日
サブプライム・ローンの破綻が、たんなる引き金にすぎなかったことは、この数週間の展開が示している。昨年末までのサブプライム問題は序章、今回の金融恐慌が第1章、年末から本格化する(実体経済での)世界大不況が第3章…というのは避けられない。われわれは恐竜が絶滅した中でしぶとく生き残った哺乳類のように、適応と進化の方向を発見する以外ない。それはそれでやりがいのある仕事だと思う。恐竜だって、鳥になるくらいのことはやってのけるのだから。
金融資本は自立して存在できない。実体経済からどんなにかけ離れても、製造業や農業、鉱工業などの旧産業がどんなに古臭くみえても、実体から離れた分はいつか埋めざるをえないのだ。金融の「ハイテク化」は、誰も中身を気にしなくなる複雑な金融商品を膨らませた。根拠なく成長した分は、「不良債権」というツケとなった降りかかってくる。「不良債権」の困ったところは、正常と不良の間に線が引けないところだ。バブルは蒸発するが、それがとり憑いていた実体は、生きて活動している会社、土地や建築物とならざるを得ない。「不良債権」の「処理」とは、金融さえ正常であれば「正常債権」であった実体を殺すことになりかねない。もともと「不良債権」は金融業界用語で、正常債権が連鎖的に不良化する状況では意味を成さない。だから、この「処理」が終わることに期待するのは意味がない。
金融の正常化に期待はしても、アテにはできない。銀行が生き残っても経済が弱体化したのでは何もならない。金融市場が機能しない、それ以外の市場もうまく機能しない状況でも、人間は生きてきた。食べ物がなければ、百姓をやればいい。モノがなければ、作ればいい。人もモノも足りないなら、知恵を使えばいい。カネが信用できないなら、人間を信用すればいい。筆者は人間の生命力、問題解決能力、そしてITを信じる。
Topics: 政治・経済・ビジネス, 近時片々(時論) | No Comments »