相撲に「八百長」はあるか?
By Hiroki Kamata | 2008年 10月 21日
子供のころ、「プロレス八百長論」は悶着の種で、大人も子供もよく大ゲンカした。もちろん腕力沙汰にもなった。大人になってから“プロレス派”の友人に、あれは「総合舞台芸術だ」と解説され、大いに納得した。それはスポーツでも、演劇でも、サーカスでもある。偉大なレスラーは、独特の風格を持っている。「真剣勝負か?」と言われれば、もちろん「真剣」だ、というしかない。真剣でなければできるはずがない。俳優に「真剣か?」と聞くだろうか? 他方で、古代ローマの剣闘士競技のような命のやりとりはない。幸いなことに。では相撲(の取組の一部)は「八百長」だろうか?
大相撲の「八百長」問題は、次から次へと掟破りの内部情報が湧き出る展開で、当事者には収拾不能なレベルに達したようだ。面白すぎるが、楽しんではいられない。「日本」があぶない、という気がするからだ。
客観的に見て、相撲は「神事」が基本であって、それに「興行」や「スポーツ」「国技」といった(いずれも定義があいまいな)述語がいくらでもくっつくようになっている。重要なことは、日本の民衆的神事に「興行」がつきものなことだ。それにテキヤや賭博も。欲も絡めば情も(つまりは「人事」のすべてが)絡む。だから、相撲は「神事であり、かつ興行である」ということだろう。相撲の民衆的人気に目をつけた政治家や官僚により「国技」となったわけである。相撲は断じて「国技」や「財団法人」などよりエラいのだ。誰が審判をするか。誰が取組みを編成するか。スポーツなどというのは誤解だ。
興業においては、言うまでもなく「顧客満足」が最も重要で、だから「スポーツ」として観たい向きにも、「スポ根」や「ホームドラマ」「日本文化」として観たい向きにも配慮する必要が出てくる。あまりにクサいと飽きられる。しかし、相撲には本来「八百長」だけはあり得ない(「星の貸し借り」や「無気力相撲」はあるが)。公認された賭博の対象でない以上、一般市民に被害を与える詐欺行為があり得ないからだ。すべては興業におけるバランスの問題で、だから「二子山サーガ」のような、じつに陰影に富んだ物語も生まれる。相撲は相撲なのがいいのであって、そうした日本的な聖俗混淆が魅力となり、世界的に評価されてきたのだ。
ローカルなものがグローバルの波にさらされる時、定義なしで成り立ってきた自律協調的エコシステム(世間)は極度の緊張に陥る。なにしろ、一から説明しなければならない。”What is Sumo??” それはモンゴルの侵入より怖い、原理の侵入だった。仕方なしに、初めて相撲を「定義」してみると「神事」という「生成原理」が登場する。神事を定義するのも非常にむずかしい。宗教的儀礼ではあるが、宗教(神)のあり方そのものが、文化に依存するからである。あわてて「品格」などという、耳触りはよいが(じつは問答無用(!)を意味する)危うい原理を導入して「理論武装」すると、今度はそれに振り回されて、にっちもさっちもいかないところ(勝者なき法廷)に行ってしまう。「立ち合いの厳格化」で、かえって壊れた立ち合いが目立つという皮肉な結果も生まれる。日本を(恣意的に解釈した)中国的原理によって「国粋」主義を創りだした水戸学のようなものだ。
法廷は、講談社と日本相撲協会を当事者とする民事紛争に判断を下すことになるだけで、相撲を危機に追い込んだ問題は何も決着させない。業界の中と外が絡んで「八百長告発→北の湖理事長攻撃→朝青龍攻撃→八百長告発→ロシア人追放→八百長告発→」とエスカレートさせていった間に、エコシステムは破壊され蹂躙された。本来の日本的原理(調停メカニズム)が機能していれば、こんなむちゃくちゃにはならない。この際、われわれは日本的価値観が欧米のそれとは違うことを認めなくてはならない。エコシステムに妙な原理を持ち込んで自滅に向かうのではなく、これを異質な価値観たちと調和させる方法を考えなくてはならない。「純化」すれば救われるというのは逆で、純化すれば消滅があるだけだ。玉葱を剥いていっても何も残らないように、純粋な日本文化などないからだ。
Topics: 近時片々(時論) | No Comments »