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セカンドライフの憂鬱:日本の仮想現実、まるで“仮装”現実、じつは”下層”現実!?

By Hiroki Kamata | 2008年 10月 25日

セカンドライフはつまらない?

「『セカンドライフ』はなぜつまらない 仮想世界のコミュニティーの本質」(日経IT+Plus、10月24日、新 清士)を興味深く読んだ。こういうタイトルにしたということは、「セカンドライフはつまらない」のが日本の常識であるということか。Second Lifeは、ひとつのプラットフォームであって、「おもしろ」くなるかどうかは、それが実現する「世界」に利用者を惹きつける環境に依存する。つまり技術的環境とビジネスモデルだ。前者はネットワークとマシンのパワーによるところが大きい。Second Lifeも、同種のサービスも日々進化する。全文検索技術もそうだが、技術とビジネスモデルの進化によってGoogleも生まれた。仮想コミュニティ環境も次世代のプラットフォームであることは確実だ。だから、「セカンドライフはつまらない」という表現は大いに誤解を与えるものだと思う。

表題の記事は、野島美保著『人はなぜ形のないものを買うのか~仮想世界のビジネスモデル』(NTT出版)という本を紹介している。仮想空間の存立根拠に迫った本格的研究書で、「今のインターネット上のコミュニティーの多様な性質を切り出すことに成功している」という。著者、評者ともにヘビーなゲームプレーヤーだそうで、たしかにゲームコミュニティの分析は非常に興味深い。「三種のリーダー」や「コミュニティ活動の五角形モデル」はゲームについてのものだが、他にも応用が可能と思わせる。しかし、である。お二人の考える「仮想世界」でSecond Lifeを論じるのは、見当が外れている。Second Lifeの「仮想世界」は、「仮想メモリ」とか「仮想化」といったIT用語の仮想性と同じ意味で、空想的、仮構的(つまり虚構)なものではまったくない。

「仮想」は要注意語の一つで、誤用されれることが非常に多い。英語の virtual は必ず実効性(たとえば電子マネー、電子商取引)を伴い、日常生活の物理的制約(時間・空間)は受けないとしても、現実世界と対応関係を持つ。仮想利益を膨らませ、バランスシートを飾ったデリバティブ取引も、結局は現金で決済しなければならないわけだ。「仮想敵国」の仮想は、virtual でなく hypothetical(仮説的)つまりシミュレーションにおける技術的想定を意味しているが、これもよく意味を取り違えた不毛な議論の原因になる。Second Lifeのフィリップ・ローズデールは、繰り返し「Second Lifeはゲームではない」と強調している。リアルに見せかけたゲームではない、リアルの制約のないバーチャルな世界なのだ。(Second Lifeの実像については、『仮想コミュニティがビジネスを創りかえる」W.J.アウ著、日経BP)がベスト。)

新氏によれば、野島氏は「創作から経済活動まで何でもできるという戦略をとったセカンドライフは、その自由度のあまりの広さによって活動から報われるまでのプロセスが複雑になり、ユーザーは活動をして適切に報いられたと感じる仕組みを維持することが難しくなっているはずだという。」しかし「難しく」なる」のは百も承知でローズデールはチャレンジしている。それは現実を超えた現実を目指すためで、普及するには virtuality がまだ affordable でないだけだ。オンラインコミュニティは、現実世界のコミュニティとまったく同じにはならないだろう。しかし、Second Lifeの仮想世界が第一義的に目指すのは、virtualityによって現実世界のコミュニティをサポートすることである。

どうも多くの日本人は仮想世界に、現実からの逃避を考えているようだ。マスクの向こうの「仮装」世界、ロボットがヒトの振舞いを真似る倒錯世界である。たしかに怪人二十面相、鞍馬天狗、エイトマン、仮面ライダー…と仮面ヒーローものの系譜は日本人の心に触れるものがある。悲しいかな、コミュニティの力で現実世界を改善できることなど信じないで、虚構世界に満足するわけである。ソーシャルネットワーキング問題は、結局、人々の社会観、世界観(哲学の基本問題の一つ)に帰着する。人間は社会的動物であるが、「社会」は人々の社会観の写像である。欧米では「市民社会」というメタコミュニティがアーキテクチャとして構築される。Second Lifeの世界は、現実のコミュニティを写像し、より大きな自由を価値として実現しようとしている。日本では逆に、SNSが「要紹介・会員制倶楽部」化したように、非社会化(蛸壺化)する。蛸壺は何百万個あっても蛸壺で、特有の「世間」が生まれるだけだ。

フィリップ・K・ディックのSFは、映画になった『トータルリコール』など、悪夢のような「仮想現実」をテーマとしたものが少なくないが、権力者が提供する幻覚剤とバービー人形のような玩具で、過去の幻想に耽溺する悲惨な火星開拓民が描かれている『パーマーエルドリッジの三つの聖痕』(1965)は、なかでもゲームの中に夢と自由を追う現代日本を予告したかのような迫力があり、読むのが辛くなる。日本の仮想現実は、仮装現実、いや下層現実か!?

参考:拙文「バーチャルと仮想の間」Object-Insiders

Topics: テクノロジーとビジネス, 今日のひと言, 書評(本・新聞・ブログ), 近時片々(時論) | No Comments »

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