不況と暗殺の時代
By admin | 2008年 12月 3日
やはり「34年前の犬の一件」ですべて片付けられようとしている。社会保険制度の「改革」、つまり疑惑にまみれた社保庁の解体が進む中、制度の裏側を知るであろう人物が殺害され、あるいは狙われた。しかも鮮やかなプロの手口で。不況と暴力とは縁が深い。完全雇用・地域社会が支えていた日本の「安全」神話は、確実に終わりを迎えた。
今回も、いつものパターンと同じだ。2002年10月25日、特別会計を中心とした不正問題を追及していた石井紘基衆院議員は、自称右翼団体員に「家賃の工面を断られた仕返しで」殺害された。2007年4月17日、長崎市で選挙運動中の伊藤一長市長も「工事発注などで市に恨みがあった」という暴力団幹部に射殺された。今回の事件は、結局のところ、社会保険問題の過去を知る者、調査する者、役所や政治家を追及しようとする者、それを取り上げるメディア…すべてに対して不気味な警告となった。その影響は、すでに年金問題の議論をテレビから追い出したほど、非常に大きい。
怖ろしい時代となったものである。警察が事件を究明しようとしないのは、背後関係が深く入り組み、犯罪組織よりはむしろ、司直の手の遠く及ばない別の筋の力が働くためだろう。その「力」が「消えた年金」の真相に関る者であることは、想像に難くない。実行犯が(車で乗りつけ堂々と)警察に名乗り出て、人を食ったような動機を述べるのは、日本においてビジネスとして殺人を行う唯一の存在である暴力団同士の抗争で見られる典型的スタイルで、警察に対し「以後詮索無用」をメッセージとして伝えるもの。納得させてしまえば、あとの「捜査」は、動機や背後関係などの不審点をもっともらしく説明するものとなる。今回の場合、動機の主張は「一貫して揺るぎない」ものと評価されている。容疑者の生活に関する情報が少なく、納税実績や銀行・証券口座の記録、数枚所持していたとされるクレジットカードの利用データ、通話記録など、物証となる「個人情報」がまったく表に出てこない。出さないつもりか。
怖いのは、むしろ熱心に「異常な人間の異常な犯行」説に同調しているマスコミである。マスコミが究明する勇気を持てないのは理解できる。コスタ・ガブラス監督の映画『告白』(1970)に出てくるようなヒーローは期待しない。しかし、暗殺を暗殺と言わないなら、犯人が「暗殺だ」と言わない限り、暗殺などはなくなってしまうだろう。暗殺と言わないことは、今後も暗殺を奨励することになるだろう。人口減と大不況の中で、戦後の経済・社会システムは自壊しつつある。政治家は選挙に怯え、テクノクラートは暴力に怯え、人々は失業に怯える。江戸幕府の崩壊が一つの文明社会(共同体)の解体を伴ったように、またソ連の崩壊が(佐藤 優が「甘い腐臭」と形容した)「社会主義社会」の安定の消滅を意味したように、戦後日本の「安定と繁栄」が終わったことだけは確かなようだ。
過去の「暗い時代」と現代との違いは、多くの人々がウェブというメディアを持ちうること、外からの情報は、その気にさえなればいくらでも入って来ることだ。情報の完全な統制は不可能で、自由に考えることだけは止められない。誰にでも選挙権はある。ただ、コミュニケーションの手段は、そのままでは社会的・公共的なものとはならない。米国では今年、インターネットの利用が、史上初めて選挙結果に大きな影響を与えた。それはウェブが公共的問題を議論する場を形成するまでに発展したことの結果であると思う。日本ではまずウェブの上で「公共」というコンセプトを共有することから始める必要がある。議論(理性と論理)を通じた説得という手段を放棄するなら、戦前の二の舞になる。
現代日本の暗殺は、ほとんどが「利」で起動する。つまり首謀者には感情はなく非情である。これと戦うには(社会のほうが正義を信じていないので)正義は無力だと思う。正義には期待できず、悪を見つけて攻撃すれば、さらなる悪を生み出す。自分も悪にまみれる。悪は眠らせるしかない、ということを筆者の経験は教えてきた。どうやら年金はかなり(公にできない理由で)傷んでいるようだが、日本は正義を持ちだすと必ず暴力を呼び込む厄介な社会だ。会計検査を含めて現実を確認し、オープンなプロセスで制度の設計をやり直すしかない。その時に、最も重要な役割を果たすべき官僚のモチベーションと安全を保証できないとすれば、社会の解体がさらに進んでしまうだろう。焦らず、出来ることをやっていくしかないだろう。
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