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現代の貧乏神=非正規:ついに首相まで

By admin | 2008年 12月 9日

「非正規社員」などという「丸い四角」のような存在を認めてしまうと、歯止めがなくなる。非正規化の波は、「役員」「裁判官」から、ついには総理大臣にまで及んでしまった。どうやら3代続いて「非正規総理」になりそうだ。総理など「選挙の顔」でいいという、人をバカにした浅知恵から発したものだが、いったん言葉(名辞)を濫せば、コミュニケーションは崩壊し、組織も社会も機能しなくなる。社会は意味の共有の上に成り立つ、デリケートなものだからだ。
いまや雇用労働者の3分の1超、10代後半に至っては7割が「非正規」である。1995年に当時の日経連が発表した提言「新時代の日本的経営」に沿って、各社が「雇用の多様化」の名目で「フルタイム正社員」を切ってきた結果だ。関係者は「決して人件費コスト削減だけを目的にしたものではない」というが、コストを1銭でも削りたい当時の(今も)経営者にどう扱われるかは分かり切っていた。こういう発想ができるのは、ビジネスの現場(つまり人間)をまったく知らない秀才か、あるいは悪魔か、どちらかだろう。日本には(妖怪はいても)悪魔はいないと信じたい。

「新時代の日本的経営」が理想とした企業組織は、「高度専門能力活用型グループ」を中心とし、プロフェッショナリズムを基調とした、個人主義、能力主義あるいは成果主義の組織である。米国型や欧州型とも違い、歴史上に存続した企業ではない。プロスポーツのチームと似ているが、あの世界では、選手は社員ではなく自営業で、最高年棒も高い。(ただし、相撲取りは「財団職員」で部屋の支配下にあり、幕内を一定期間保つと「親方」の身分が得られ、逆に成績が悪いと「廃業=解雇」となる。なるほど「新時代」の経営のモデルは相撲にあったわけか。)

要するに、「新時代の日本的経営」は、ゼロからの実験としてなら理解できるが、すでに一種の有機体となっている生身の組織を「変革」するプランとしては杜撰と言うしかない。実験ならば、参加者にも選ぶ権利はある。(合理的期待を含めた)雇用条件の変更ならば、改めて同意を得る必要がある。雇用は契約行為であるからだ。プロセスを欠いた、上からの「改革」は暴力に等しい。「能力」と「成果」、「チーム」と「個人」など、肝心の細部が甘ければ、机上の空論は暴論になる。

ご存じのように、日本ではプロフェッショナルを育てる教育は、一部の大学・学科以外には存在せず、それすら(就活などで)中途半端に終わっている。ヨーロッパは初等教育を終えれば進路を選択させられ、コースが分かれる。米国は大学の厳格な格付けによるエリート教育を行っている。日本はと言えば、時間をかけて一人一人の「能力」を引き出し、チームとして最適化させることを最重視する旧来の日本的経営に対応したもので、先端的教育機関としての大学は機能せず、「名門」高校もブランド大学の入試突破のスキルを教えているにすぎない。実社会で必要とされる能力や適性は、学校教育では養われず、結局「社会」つまり企業(組織)に委ねられることになる。とくに軽視されているのは「リーダーシップ」で、これはほぼ体育会系に任されている。

社会人となるまで、ほぼ全員がアマチュアであるような社会で、(経営幹部を除いた)全員がプロか、さもなければ「ハケン」であるように選別しようとすればどうなるか。壮絶な椅子取りゲームが始まり、仕事どころではなくなる。社員は生き残りに必死となり、非正規身分に落とされた者は帰属すべきチームも社会も失い、疑心暗鬼が広がる。そして、安定を基本としていた日本社会は、不安定にはなったが、期待とは裏腹に活力も低下し、労働生産性は停滞し、地域社会は荒廃した。過去40年、日本人がこれほど無気力に見えたことはない。生産性が向上しないのに利益を出す「非正規」な状態は、金融恐慌とともに終わった。

日本は正規の伝統のある正規な社会を受け継いできた。日本は正規の社員、正規の裁判官、正規の総理を必要とする。その「正規性」が何によって保たれてきたのかを継承できない組織は瓦解するだろう。生産性を高めるにはどうするか、この不況の中、答はプロの経営者が、そしてチームが、掴み取るしかない。 (12/08/2008)

Topics: 近時片々(時論) | No Comments »

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