『文明の衝突?』のハンチントン死す。文明バンザイ
By Hiroki Kamata | 2008年 12月 28日
サミュエル・ハンチントン(81)が死去した。世界が「文明の衝突」にうんざりし、そもそも世界に戦争と恐慌を持ち込むような「文明」って何なの、と疑い始めた時だった。本人にとってもよい時期だったかもしれないが、こっちには言いたいことが山ほどある。
「文明」は「民族」以上に恣意的な概念で、定義について一致が得られることはない。「××文明」というだけで、何でも言えるわけだから、学問的に扱うのは逆に難しいし、その世界で相手にされることはあまりない。しかし、政治は別だ。「国民」に「文明的使命」を与え、「文明の敵」に対する戦いを呼びかければ、状況によってはかなり「使える」メッセージとなる。冷戦が終結し、国防予算の削減に苦しむ業界は、生き残るために新しい「聖戦」を求めていた。ハンチントン先生も、格調ははなはだ低いが、クレルヴォーのベルナールくらいの影響力はあったかもしれない。
「文明の衝突」が、学者のパラノイヤ的世界観だったか、政治理論家によるポスト冷戦の世界戦略論だったかはよく分からない(ふつうに考えると後者だが)。冷戦後は、『歴史の終わり』など、今日からすればトンデモ本の類いが大いに売れた。クリントン政権時代は、金融バブル、ITバブルと同時に、文明(民主主義)バブルも育っていたようだ。最後のものは、快楽主義のクリントンの好みに合わず、生真面目なブッシュ大統領を待つことになった。「同時多発テロ」によって点火し、ついに「歴史の終わり」ならぬ「文明の終わり」寸前にまで行ってしまった。(今日の日経新聞にフクヤマ氏のインタビューが載っていた。「民主主義」は調整期(ひと休み)なのだそうだ。)
「文明の衝突」に対する最も漫画的反響は、日本の「平和と繁栄の弧」論と「価値観外交」だったろう。ハンチントン先生は、日本を「孤立文明」とし、強いものになびく性質があるので、要注意とした(というより、あまり重視してもくれなかった)。てっきり「文明の仲間」と見てくれてると思ってたのに…、というわけで慌てて「西欧文明」の輪に入ろうとしたのが「価値観外交」だった。「民主主義と市場経済」が価値観、と考えたのだろうが、「西欧文明」の論理からすると、これらは価値観ではなく、市民社会の価値観を投影した社会システムのアーキテクチャである。信仰告白としては弱すぎる。戦争責任を否定したりするほうがよほど独自の「価値観」で、かえって西欧との異質性を強調する結果にもなった。
「文明の衝突」を言うのなら、「犬文明」と「猫文明」とか、「漫才文明」と「落語文明」とか、何でも言えてしまう。これは学者が言うべきことではなかったし、政治家にデマゴギー(煽動)として言わせるべきだった。ハンチントンと同様、厳密でない議論が許されるならば、筆者はこう思う。世界中どこにも「文明」と「野蛮」はある。「文明」は、相手が誰であれ、人として尊重をすることを教える。「野蛮」は、民主主義(選挙による勝利)と市場経済(金儲け)という目的のためには手段を選ぶ必要はないことを教える。さらに目的が「信仰」や「文明」である時には、何でもやっていいと教える。文明は文明だ。その精神は2000年以上前と変わることはない。 (12/28/2008)
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