「市場主義」の退場と新しい市場のデザイン
By Hiroki Kamata | 2008年 12月 31日
米国の「ビッグスリー救済」について日経新聞は、破綻した企業は市場から退場を宣告されたようなもので、政府が救済するのは云々という例の教条を持ちだしていたが、あまり力が感じられなかった。トヨタさえ絶頂から転落するような市場に恐れをなしたのだろう。じっさい、新聞やテレビも赤字に転落するところが多く、市場から「退場を宣告」されそうな状況だ。新聞などは「再販制度護持」を言うのだから、自由競争にも例外があるべきだと主張しているわけだが、自動車と新聞の違いを説明してほしいものだ。
新聞や出版は「デジタルメディア」などで単純に置き換えられない。金銭的なものでも(たぶん)そうだが、それらがもたらしているユニークな価値は金銭的なもの以外のところにある。新聞社がいくら儲けても、読者は嬉しくもない。それを当事者がわからなくなったら、退場しても仕方がないだろう。それに日本の新聞は恐ろしく高価だ。ウォールストリート・ジャーナル紙などは、月額1,000円あまりで宅配とオンラインの両方を利用できる。つまり社会的な価値も大きいということだ。
筆者は、この「退場」論が大嫌いだ。これを言う人間は、
・仕事でも人生でも、苦労して築いた経験がない
・競争は誰にでも開かれていると信じている
・自分だけは競争の例外と考えている
・人間に対する仁愛、惻隠の情を欠いている
・しつけの悪い、12歳程度の発育レベル
のではないかとも思っている。あまり根拠はないが。
市場主義者は、「はじめに市場があり競争があった」と信じているふしがあるが、市場は非市場的存在を前提にして生まれる。権力、国家、社会(共同体)がないと市場は育たない。日本の資本主義は、明治期の「官業・払い下げ資本主義」のDNAを受け継いでいる。中国やロシアの悪口は言えないわけだ。政府との密接な関係が、大企業の成功の要因だった。新聞社は大手町の一等地を貰い、放送会社は電波をタダ同然で分けてもらった。そもそも日本の資本主義は、そうした競争回避的環境の中で成長した。日本は自由競争で淘汰を重ねてきたわけではない。だから裏口入学の連中に競争を云々してほしくない。
筆者は自由競争が好きだ。だがそれは理念モデルにすぎず、現実の市場環境は自由意志など働く余地は少ない「非対称性の世界」である。他方で、競争回避的原理も理解できる。人間が市場のプレーヤーなのであって、そもそも合理的な存在ではないからだ。非合理とはいえ、競争と非競争で生まれるエコシステムには、社会の価値観が反映されている。バランスを変える時には、価値観とシステムの両面で、納得のいく論理と説明が必要となる。かつて見た東映任侠映画では、昔ながらの談合的ルールを墨守する老ヤクザを、「これからは競争の時代だ」という新興勢力が役人と組んで攻撃し、瀕死の旧勢力を高倉 健や藤 純子が助けるというパターンが多かった。1960年代は高度成長期だが、人々は競争より仁義に心酔していたようだ。
誰にも「退場」を宣告する権利はない。それを言うのは、レッドカード乱発のヘボ審判のようなもので、試合を壊してしまう。企業の興廃は、結局そこに関わる人の意思によるべきで、市場は一つのサインでしかない。存亡の危機に立つ企業を国(社会)が助けるかどうかは、その事業が社会にどんな価値をもたらすかで判断されるべきだろう。儲ける企業がいい企業であるという前提で動いてきた「市場」が、じつは数十年分の借金を世界経済に負わせてしまった。当事者たちの多くは、救済資金から給料とボーナスを受け取って「退場」した。彼らの保証人たちに責任を負わせたいところだ。
今年は、市場の本質が露わになる「100年に一度あるかどうか」の機会となった。つまり、市場というものをデザインし直す機会が得られたわけである。市場を食い物にしてきた連中、根拠のない市場信仰を口にしてきただけの連中には発言権はない。市場で酷い目に遭った人たち、社会がよくなるように市場を使いたいと考えている人たちは、このデザインにコミットする必要があるだろう。ざっとヒントを挙げると。
・市場で量れるのはカネだけ(嘘の数字でないとして)
・市場のルールをつくるのは(市場ではなく)人間である
・ルールは一定の社会的価値観を前提とする
・市場はどうにでも設計できる(ギャンブルマシンにさえなった)。
といったことだと思う。来年はない智恵を絞っていきたいです。
皆様にとってよいお年となることを願っております。(恐惶謹言、頓首頓首)
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