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市場経済を再設計する (2):市場は自立できない

By Hiroki Kamata | 2009年 1月 17日

市場はあたかも「自立」できるような印象を与える情報操作がなされてきたし、これからもされるだろう。それを主張する者には(市場を操作する者から)利益が約束されるからだ。しかし「見えざる手」は幻想にすぎない。自由が束縛の、健康が病気の、生が死の、幸福が不幸の反対概念であるように、市場はそれ以外のものがあって初めて成り立つ。完全な市場経済は、死のない生命、悪のない正義のようなもので、それ自体が大嘘である。そして嘘つきは泥棒の始まりだ。  

「完全なる市場経済」は自壊する

「完全な市場経済」はさぞスリリングだろう。会社も個人も、自分の「価値を最大化」する(あるいはそう見せかける)ために24時間、戦わなければならない。価値は指数化され、第三者機関で格付けされる(が、その妥当性は誰も知らない)。代わりはいつでも「人材市場」から供給され、需要のない人間には「市場からの退場」が促される。能力のある人間だけが残り、役に立たない人間は消える。では資金の潤沢な企業は強力な人材を得てますます強力になるだろうか?

公共サービスの市場化(すでに始まっているが)はもちろんもっと劇的だ。病院は患者に、保険証より所得証明の提示を求める。資産のない老人の世話をして赤字をたれ流すような病院にも退場してもらう。警察も、消防も民営だ。契約した個人や法人が顧客となり、それによってこれらのサービスは、巨額の利益を上げることが可能となるだろう。入札制で最も高い値をつけた業者に任せれば、政府や自治体の最大の収益源となる。官僚をなくせば天下りもなくなる。つまり、小さな政府は実現でき、政府の借金もなくなる。これが人々の欲することだろうか?

「完全な市場経済」は、「完全なる計画経済」や「完全なる独裁」と同様、あるいはそれ以上に、誰にとっても悪夢にしかなりっこない。「完全なる計画経済」が成り立たないのは、誰もが数字をごまかすことに一生懸命になるからだが、「完全な市場経済」も同じく、嘘の数字で破綻したことは忘れないでおこう。「完全な市場経済」においても、平均的な「人間の創造性」は、イノベーションなどという冒険にではなく、数字を欺くことに費やされるからだ。バレにくい嘘をつく能力、責任を他人に、成果を自分にくるように情報と人間関係(つまり組織)を操作する能力。これは「悪」かもしれないが、市場ではそれが高く評価される。「まじめに働く」ことしか自信がもてない平均的な、つまり誠実な人間にとって、数値化された「能力競争」は恐い。だから「悪」にも抵抗できない。こうして市場経済は嘘のスケールを大きくしていくが、これは計画経済の場合と同じではないか。

世界はデジタルではない

人間はもちろん、人間が生きている世界(実世界)は、すべてアナログの世界だ。農作物を食べ、建築材料で構築された家に住み、繊維を着て、乗物に乗って移動する。デジタルはアナログ世界の虚像である「情報」を作る。それによってアナログの世界を支配し、制御するためだ。デジタル情報は必ずアナログ世界のモデル(たとえばデータモデル、プロセスモデル、決算書、元帳…)を前提にしているが、それは現実をある側面に注目して抽象化したものにすぎない。数字は正直(現実)だと思い込んでいる人が多いが、すべての数字は現実の写像=虚像だ。情報を相手に仕事をする比重が多くなると、成果も数字でしかなくなる。米国の精緻なMBA式経営が、とくに製造業において成果を生まなかったのは、数字しか信じない経営の限界といえる。

数字は「成功」のデジタルイメージ(虚像)を作るが、人間はその虚像に合わせた数字をでっち上げることができる。数字が前向きの<意味>を持つのは、人々がリアルな世界の感覚、うまり数字の限界を知っている場合だけだ。人間同士の信頼感がない組織で、どうしてそうした<意味>が共有できるだろうか。米国で実現しかかった「完全な市場経済」は、それ自身の虚構によって崩壊した。金融サービスも、市場の管理者も、政府も、すべて詐欺の主犯か共犯、傍観者になった。「小さな政府」、つまり経営者による政府が、国民にとってどれだけ高くついたか。それでも国民はまだ「官僚は諸悪の根源だ」と信じこまされている。次にそのことを考えてみたい。 (01/17/2009)

Topics: 今日のひと言, 政治・経済・ビジネス | No Comments »

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