国宝級建築物の運命:カザルスホール閉館に思う
By Hiroki Kamata | 2009年 2月 5日
日本は千年以上の文明の歴史を持つ国だが、価値ある建築物の数はそう多くない。残す努力をしてこなかったからだ。欧米が、たかだか数世紀の間の建築と街並みを保存することで個性を磨いてきたのとは対照的だ。日本の街並みはいつまでも安定せず、個性もないから記憶にも残らない。もちろん火事や地震、空襲もあった。しかし破壊はほとんど施工主と工事業者によって粛々と行われる。今度は神田・神保町の「日本大学カザルスホール」のようだ。
カザルスホールは、磯崎 新の設計になる「お茶の水スクエア」の室内楽専用のホールとして1987年オープンし、高品位の音響と空間で高い評価を得てきた。1997年には名工ユルゲン・アーレントのバロック・オルガンを設置。抜群のマッチングでさらに価値は高まった。ホールの音響設計は、楽器と同じく純然たるアナログの世界で、現代でも成功例は多くない。再現は不可能に近い。音楽は響きの中で育ち、それはすぐれた建築物の中で育まれる。その意味でもカザルスホールは、たんなる建築という以上に、弦楽器のストラディバリウスと同じ意味の文化財である。もちろん、日本が誇りとすべきものであり、人類の財産でもある。さらにお茶の水スクエアも、日本に多くの「指定文化財」を数多く残したウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の旧館を遺しており、これも価値がある。
報道によれば、現在の所有者である日本大学は、あろうことかこの国宝級に近い建築物を壊して更地にしようとしているという。誤報であって欲しいが、大学側が否定していないところをみると、残念ながら本当らしい。日本大学といえば、多数の不動産を所有しており、大枚をはたいて手に入れたという以外に、この文化財を破壊する必要性があるとは思えない。しかも歴史ある建築学科を有する大学である。2002年に主婦の友社が手放した時、「もしかすると」と「まさか」が交錯した感情を持ったが、前者になろうとは、品格を重んずるという日本の一市民としても痛恨の極みである。
足繁く通ったわけではないが、このホールには忘れられない思い出がいくつもある。弦楽四重奏の息を呑む対話。復元楽器であるフォルテピアノが、あれほど豊かに心に響いたホールをほかに知らない。大ホールで演奏されることが多いピアノも、本来あるべき空間で鳴っていた。ホールが楽器となり、時空を超えた至福感に浸れるという感覚は、まことに得難いものなのだ。それが破壊されるとなれば、心ある人は、野蛮以外のものではないと知るだろう。じつに恐るべきことだ。
論語に「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」と言う。音楽の神秘的な力は、ピタゴラスや孔子を引くまでもなく、古代より畏敬の対象であり、つねに文化の中心にあった。個の中にありながら社会を映す「心」というスクリーンの上に、一時的に投影される、「神聖なる調和」の力だ。音楽が重要な役割を果たす能にも同じ作用がある。これらをもっぱら「エンタメ」としてみるか、神聖なものをみるかは、文化の程度と状態に依存する。だから、音楽が濫れる時、文化が濫れ、国が濫れる。
これも市場原理なのだろうか。そうともいえまい。オーナーがホールの「価値」を理解していないから、社会に認知させる責任を放棄し、「貸ホール」業としての利用率が低く赤字であるという理由で(思惑どおりに?)建替えて敷地を「有効利用」しようという。価値の多様性を理解するのが知識・教養であり、それを学ぶ場が教育だ。たしかに、文化財の価値は、それを理解しない者にとっては、高価な土地の上に乗る中古建物にすぎない。しかし、日本大学が、「日本大学カザルスホール」を破壊すれば、それは「日本大学」の文化性をも自ら破壊することになる。それは伝統ある大学の関係者の本意ではないだろう。主婦の友は売る相手を間違えたのだろうか? (02/05/2009)
…
日本大学は 広く知識を世界にもとめて
深遠な学術を研究し
心身ともに健全な文化人を
育成することを使命とする
(「日本大学の目的および使命」より)
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