小沢一郎と「平成の法難」:日本的保守政治の運命
By Hiroki Kamata | 2009年 3月 7日
数奇な星のもとに生まれた政治家、小沢(澤)一郎が危ない。田中角栄の愛弟子にしてユダ、旧自民党のエリートにしてその最大の脅威、今の政界には場違いなほどの実力者、豪腕と弱気が同居する、このスカーフェイスが、「今度こそダメだろう」と、まことしやかに語られている。しかし何かおかしくはないか?
政治とは社会的問題解決のプロセス、政治家は総設計士
政治とは、権力を動かして社会が直面する大小、遠近の問題を解決するプロセスであり、その担い手にはかなり特殊な職業的資質が要求される。社会のCEO、総設計士なのだから当然だ。問題を「解決」するには、多くの人が納得する大義あるいはビジョンを提起し、衝突する利害を調整しつつ、異なる焦点と深度、視野を持った政策のセットを精密に組み立て、オペレーションを最適化すべく官僚組織に仕事をさせる。これは律令国家の左大臣であろうと、幕府の執権、老中であろうと、そして議会があろうとなかろうと変わらない、政治家の仕事である。その自覚を持った人物はそう多くなかったが。
誰にそんなことが勤まるだろうか? 社会の指導者は、次代の才能を発見し、育てていかないと将来の成長を期し難い。日本も長い歴史をを持つ国として、そうしたシステムを持っていた。そして戦後しばらくまでは、ムラ社会の祭祀と規範に基づくシステムは、儒教的倫理観と仏教的無常観を支えとしながら、うまく機能していたと思う。地に足をつけながら、社会全体の方向をリードできる人材だ。キレイごとではすまされない現実に流されず、単純な正義感に踊らされず、根気強く社会のために働ける人材だ。しかし、「戦後民主主義」がシステムとして定着し、大衆消費社会が始まった頃から、伝統的な指導者選抜システムは機能しなくなり、米国直輸入の「原理主義的民主主義」と大衆社会の文化(ポピュリズム)に振り回される現在の状況が生まれた。
異質性を統合する日本的保守政治と小沢一郎
類いまれな政治家であった田中角栄が、最も期待し、育てた人物が小沢一郎だった。しかし角栄が見込んだだけあって、彼は政治家として自立していた。つまり独自のビジョンを持って行動することが出来た。それに(なぜかあまり語られることはないが)彼の父は吉田 茂の側近として戦後政治に大きな役割を果たした小沢 佐重喜(さえき)であり、彼の才能は(これは稀なことだが)父から受け継いだものであると思う。まさしく、彼こそは農民的過去とサラリーマン的現在、日本と世界(とくにアメリカ)、都市と農村といった異質性を、その時々に応じて手堅く(あるいは豪腕をもって)まとめあげてきた、戦後保守政治の正統な継承者といえるだろう。
小沢一郎という人物ほど、ポピュリズム文化とソリが合わない人物は少ない。それは彼自身のヒール的容貌(へのコンプレックス)も関係しているのかもしれない。その含羞は、臆病な陰険さと誤解されやすい。もし彼が、あれほどの災難をもたらしながら、なお高い人気を保つベビーフェイスの千両役者「純一郎」氏のような容姿だったら、歴史は変わっていたかもしれない。天は二物を惜しんだ。政敵はつねにその最大の弱点を攻撃している。安部元総理は、前回参院選でさえ「あの顔」にだけは負けるはずはないと思っていたようだし、麻生現総理も就任早々の国会演説では、あろうことか「オザワイチロウ」と何度も呼び捨てにした。マスコミにとっても「踏んずけていい顔」のようだ。優勝20回を超える偉大な横綱の品格を問題とする連中らしい。
小沢一郎の「法難」:お粗末なプロットだが…
今回の「政治資金規正法事件」を海外メディアが政治的捜査(「国策捜査」とは言わない)でないと考えるほど、日本のガバナンスは信用されていない。それは社会的に断罪させるべき犯罪の告発ではなく、もっぱら「イメージ」を傷つけることを目的にしていることが明白だからだ。「山田洋行」から「大分キヤノン」や「パシコン」など(本来の)特捜案件は、いずれも中途半端なのに対し、今回の「形式違反」(共産党を除き、この国の環境に生きる政治家ならほとんど誰でもやっていること)での強制捜査は、ついに最後の「仁義」も捨てた日本の旧体制の反撃であるとみられているのである。そもそも小沢氏ほど「利権政治」と遠い人間は少ない。自民党での約束された将来を捨てたような人間である。また田中政治の表裏を知り、それを変えるために彼ほど尽力した人間はいない。「二大政党制」を信じて小選挙区制を導入し、結果として小泉氏に「三分の二」を献上する羽目になったほどだ。
総理および法務大臣の指揮権下にある検察には、政治家の捜査での「中立」を期待できず、また政治という業界に首まで漬かってきたマスコミには「客観的」な報道を期待できない。これらの影響を受けないブログでは、たとえば「政府高官」たる漆間 巌官房副長官(元警察庁長官)が、捜査の見通しを述べたり、菅 義偉・自民党選対副委員長がそれをたしなめたり、連日「関係者の話」という未確認情報が「報道」されることへの疑問が語られていて面白い(たとえばこれやこれ)。そもそも今回の件は、「小沢金庫番」を20年も務め、犯罪なら主犯であるはずの高橋嘉信元代議士(自民党)を差し置いて、彼から業務を引き継いだ大久保秘書を標的にした(将を射んとすれば馬を…)ことに無理がある。ふつうならとても検察がやりたがらない。リング上のプロレスラーを暴行で逮捕したり、AV女優を売春で逮捕したりするようなものだからだ。だから、これからもボロが出てくるだろうし、小沢氏には獄中に入っても戦いを止めなかった先師のように、何が起きても頑張って欲しい。これは日本的であって日本人的ではない、彼のような人物にとっては「法難」だ。
ほんとうの「利権政治」とは「政治の民営化」
利権政治とは、政治をビジネスの道具とすることであって、国の政事のために、時に利権を道具とすることではない。利権を扱わずにどうやって社会的利害を調整するのか。どこの国の、どんな廉潔な政治家でも、人間社会で活動する以上、後者に関わるのは避けられない。利権政治とは、本質的に特定勢力の利益極大化に奉仕する「政治の民営(=ビジネス)化」であり、近くは「小泉改革」、そして市場の監視機能や戦争の民営化までやったブッシュ政治がまさに利権政治だった。残念なことに、目的と手段、主客の関係を政治家たちがどう扱っているかは、表からは見えにくい。「郵政」や「派遣法」のように、利権があまりに大きいと、誰も利権と思わない(白蟻を見て恐竜を見ない)からだ。
この人の災難は、日本の災難でもある。彼や(その仇敵でもあった)野中広務といった日本的政治家を葬るようなことがあれば、この国は何代も祟られることになるだろう。筆者は彼らの政策や行動を必ずしも支持しないが、大小の「利権政治家」とは違った、ステーツマンとして評価している。 (03/07/2009)
Topics: 政治・経済・ビジネス, 近時片々(時論) | 1 Comment »
2009年 3月 9日 at 2:50 AM
謀ったように「緊急世論調査」が行われ、「小沢辞めろ」の大合唱報道。まともな人間は、一方的情報をもとに「緊急」にジャッジしたいと考えてはいない。それにしても新聞がこれほど「政治化」したのも久しぶり。これほど「彼ら」が本気とすると、元厚生官僚のように「暗殺」すら考えられないではない。