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「酷吏」の時代:民免れて恥なし

By Hiroki Kamata | 2009年 3月 9日

「子曰く、これを導くに政を以ってし、これを斉える(ととのえる)に刑を以ってすれば、民免れて恥なし。これを導くに徳を以ってし、これを斉えるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格し(かつただし)。」(子曰、導之以政、斉之以刑、民免而無恥、導之以徳、斉之以礼、有恥且格。) 論語・為政 (1)

司馬遷は「史記・酷吏列伝」の序で、冒頭の論語と老子を引用しつつ、次のように述べている。
「法令は政治の道具ではあるが、民心の清濁を制治する根源ではない。むかし、秦時代においては、天下の法網は非常に精密であった。しかし、姦邪偽悪はきざし起こり、その極においては、官吏は責任をのがれ人民はたくみに法網をくぐり、救うべからざる亡国の道をたどったのである。当時、官吏の政治の方法は、火災を消し熱湯を鎮めるのに、火元をそのままにしておいて末節につとめるような状態であった。蛮勇厳酷の人物でなくては、どうしてその任務にたえて愉快でありえたろうか。」 (2)

筆者は若い頃、これは専制時代の話だと思っていた。しかし名目上の「主権者」が皇帝であろうと国民であろうと、状況が閉塞してわけのわからない不安に駆られると、古今東西まったく同じことになる。建設の政治家より破壊の政治家、経済官僚より治安官僚に頼りたい気持ちになるのだ。なにしろ前者は「利権」に関わるのだから。すると「治世の能吏」はますます「乱世の姦雄」に化けて世を騒がす。

社会のストレスが高まると、「悪」いもの「汚」いもの「危」いものを取り除けば「正」と「清」が取り戻され、「安」定が回復されると思いたくなる。これは一つの社会的な病で、摘発は摘発を呼び、誰も安心できなくなる。「酷吏」だけが生き生きとし、秋霜烈日、破邪顕正の剣を振るって汚れた政治家を懲らしめる。あるいは「暴れん坊将軍」が毎週旗本を「成敗」するのを見て「庶民」が快哉を叫ぶ。これは「自傷行為」であって、社会の創造性は完全に失われ、功業より讒言によって出世するものが増える。

「国技」相撲に品格を求めて「不品行」の摘発を続けたことで、品格は改善されただろうか。テロリストに手段を選ばない「戦争」を宣言してテロリストは減っただろうか。「不良」債権問題を解決して、あるいは「負け組」を「市場から退場」させて、経済は成長しただろうか。「反日」を攻撃して日本は愛されるようになったか。生活が「滅菌」「除菌」処理されても、アトピーを増やしただけではないか。

恐慌や戦争のように、歴史は必ず繰り返さずにおかないのだろうか。短才無学を愧じずにさらに論語を引くなら、

名正しからざれば則(すなわ)ち言(げん)順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず、礼楽興らざれば則ち刑罰(けいばつ)中(あた)らず、刑罰中らざれば則ち民(たみ)手足を措(お)く所なし。
名不正則言不順、 言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足 (論語・子路)

よく誤解されるが、名を正すとは、(名前に合わない)現実を変えるというのが本意であって、現実に合わせて名前を変えるということに眼目があるわけではない(一般に日本では「名」の意味が誤解されている)。国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した憲法25条が現実に行われていないからといって、条文を「病的で粗野な最低限の政府」に改めても何の意味もない。もう一つ。後段の「礼楽」が興らないと「刑罰」が公正を欠くようになる、という言葉は、かなり深遠であるせいか読み過ごされてしまうことが多いが、「礼楽」は、文化(すなわち人間)を尊重し、社会を調和させる作用の基本であり、これが興らないと刑罰は人間に対して苛烈になり、公準のない運用により公正さを失い、道具としての用をなさなくなる。ということだと解する。名を正しても礼楽を興さなければ刑罰は外れてしまう、というくらい、礼楽は重要なのだ。  (03/09/2009)

Topics: 今日のひと言 | No Comments »

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