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クラウド@霞が関!:マンガ版「鳩山ビジョン」の現実性

By Hiroki Kamata | 2009年 3月 18日

hato総務省が3月17日「デジタル日本創生プロジェクト」の骨子を発表した。これを「ICT鳩山ビジョン」と称する。「今後3年間(累計)で数兆円規模の市場創出、30-40万人の雇用創出を実現、2015-20年時点で最大100兆円の新市場創出」(つまり年7%以上の成長)と数値目標は明快だが、意味不明な標語と具体的な「ハイテク」が盛られている。「ユビキタスタウン」「霞が関クラウド」??? (どこにでもある街、霞ヶ関の雲…)。なかなか含蓄はありそうだが、翻訳不可能なガラパゴス語である。 

V&Vなき戦略:「ハイテク」と成長はイコールではない

官邸(eジャパン系)に続く「戦略構想」だが、日本人はつくづく「テクノロジー」がわかっていないと思う。よく言えば「先端技術」が自動的に問題を解決し、社会を進化させるという楽観主義。だから、技術に絡む戦略は、つねに「先端分野」を列挙し、中間を飛ばして「夢」の生活の一端を見せ、さらに中間を飛ばして「雇用の創造」とか「××な社会」に至るのが常道となっている。これは「情報(化)社会」以来のパターンだが、実現性とかいうよりも、検証不能なコンセプトがちりばめられていて、システムの体をなしていない。骨格が明確でないかわりに「わかりやすさ」に配慮されており、安っぽい「マンガ」(わが豊かなマンガ文化をなぜこのような劣悪な形で)が使われる。

筆者の知る限り、大学でも教えていないから仕方がないが、テクノロジーは、問題に対して科学と技術 (エンジニアリング)を組合せて構成した解である。「白猫でも黒猫でも…」という発想がテクノロジーの原点で、ネズミを捕るのか(→どんな、どこで、いくらで…)どうかも明確でないと、テクノロジー戦略は立てようがない。日本が優秀な技術者と技術(これはミクロなエンジニアリングのほう)を持ちながら、テクノロジーへと総合し、製品化に辿りついて成功を収めるまでに至らないことがあまりに多い。ましてや「イノベーション」である。テクノロジーが「イノベーション」に結びつくのは、様々な要因の理想的結合があって可能となる。これも目的と方向、手段の明細のない議論は意味がない。

こういう文書をみて、業界の「プロ」は、寿命と予算規模、配分を計算する。研究者は自分の研究テーマとの関連をみる。これでは何兆円使おうが、投資にはならない。国家に求められるのは「ICT投資戦略」であり、V&V (妥当性確認と検証)が組込まれていないものは戦略にならない。その場合、「総務省」「経産省」「文科省」…=全省庁を合わせたものでないと機能しないことは言うまでもない。例えば、「鳩山ビジョン」にある「高度ICT人材の育成強化」の所管は、中心的には文科省と経産省、厚労省だろう。「ビジョン」では、「クラウドコンピューティングを活用した実践的な遠隔教育システムの開発を促進」と「IPv6の運用技術習得のための実験用ネットワークの整備等」が唐突に出てくるが、(戦略には不可欠な)代替技術の検討を含めて、これら(とくに後者)がキーテクノロジーとなる仕組みは示されていない。(ところで「クラウドは総務省の所管」だった?)

「国家戦略」はどこにあるのか?

国家の戦略目的が「経済危機からの脱出と持続的経済成長」であるとして、そのために総務省の戦略、経産省の戦略…を合わせたものが日本の戦略になるのだろうか。それとも予算権限を持つ財務省が最終的にICTの「戦略の戦略」をまとめるのだろうか。個々の政策は悪くない。担当されている方も優秀なのだろう。それでも、これでは戦略目的も達成できそうもないし、個別技術が一つでも成功するという控えめな見通しすら見えない。

戦略やデザイン、システム(すべて同じもの)は、その実現と運用に関連するあらゆる質問に対する答えを組み込んでいることが必要とされる。また、要求に関する質問も答も、議論や対話、論争の中から生まれる。大がかりなシステム(国家戦略はその最たるものだ)ほど、プロジェクトは工学的になるほかない。システムでは「要求工学」と言われるが、要求の妥当性確認や実装との対応、パフォーマンスの検証なども、オープンなプロセスとして管理される。ハイテクを使いながら陳腐な「システム」しかできないとすれば、マネジメント(責任体制)が欠如していたことになる。マネジメントは「身分」ではなく skill と capability を有する「機能」である。指揮官の地位が「身分」化していたら、よほどの優位にない限り、その部隊は勝ち目がない。

過去に日本で大プロジェクトが成功した時には(新幹線など)、技術的にも人格的にも強いリーダーがいた。唐突だが、現在の日本の問題は、「文系」「理系」それに「体育会系」の人材の分裂に尽きるように思われる。文系(官僚と経営者)は、技術を知らずに技術と関係する社会的決定を行い、理系(科学者と技術者)は社会を知らずに科学・技術を追求し、そして体育会系は「決断と実行」で両者の足らざるを補う、という分業だ。戦前の教育は、これほど分裂していなかったし、戦後しばらくの間のリーダーは、知仁勇を兼ね備えた人が多かった。戦後社会がそうした人材を選択的に「淘汰」してしまったのだろうか。我老いたり。 (03/18/2009)

Topics: テクノロジーとビジネス | No Comments »

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