「ネット言論の質」を上げるには:言論の技術と精神
By admin | 2009年 3月 28日
「書くことの難しさ:ネットの言論はなぜ質が低いか」という記事(日経ITPro 3/27)に目が止まった。今どきこんな、と思ったが、もちろん、記者経験があり、自らブロガーである藤代裕之さんは、既存メディアを持ち上げたいのではない。ネット言論の質を上げたくて書いておられるわけである。筆者はマスコミにいたことはないが、テクノロジー関係のニューズレターを発行し、レポートも書くので、まったく同感だ。ただ、すこし別の角度から考えてみたい。
「言論」とは何か
書くには専門的技術が必要で、日本の教育はそれを重視していない。そのため国際的にみてコミュニケーション能力はきわめて低い。営業マンは「社に持ち帰って」と言えるからいいが、非技術者から支離滅裂な「要求」を受ける立場にある技術者は悲惨である。読み書きをマスターしたはずの社会人について、いまさら「論理的に思考する力」とか、「文章力」の不足が叫ばれているくらいだから、問題が深刻で、それが教育に起因することは周知であるが、「教育改革」でも、結局知識がないと…という不毛な水掛け論が繰り返されている。
コミュニケーション能力が低いのは、畢竟するに(自分で)考える力を奪ってしまう教育のせいだと思う。誰かが方向を決めてから、あるいは周りを見てものを言う癖をつけていると、「小論文」や「始末書」など、要求されたもの以外、書く力など育たないものだ。「言論の自由」があっても、自己に不利益にならない保証がない国では、結局は自由のない国と同じく、言いたいことをいうには誇りと度胸しかない。インド人や中国人はじつに議論好きだが、これも言論の自由とは関係がない。いや、そもそも自由は個人の中にしかないものかもしれない。
たしかに平均的に見て「ネット言論」のレベルが低いことは否めない。ネットに限らず、筆者が考える「言論」とは、以下をある程度備えたものである。
- 感じる力:「言うべきこと」を感じ、判断する、社会性というもの
- 聞取る力:人の意見を冷静に(正確に)聞く
- 考える力:問題の認識から結論に至るまでの思考プロセス
- 調べる力:関連情報の範囲、情報源の吟味、事実を認めること
- 表わす力:ロジックとレトリック(言葉に対する厳密性)
これらは技術として学べるものと学べないものがある。言論は「アート」であってテクノロジーではない。そして最も必要なのが、知・仁・勇の三徳(論語に再三出てくる)、とくに人と社会への愛情だと思う。これは探求、反省、発見を日々行うしかない。筆者は一日たりとも「仁」に違わないでいられたことはないが、心掛けてはいる。
マスメディアに「言論」があるとは限らない
ジャーナリストはプロだから、以上の資質を持っていると期待されるが、マスコミに働く人々がはそうであるとは限らない。
第1に、営利企業に働くサラリーマンであり、広告収入に依存する「社」の方針に依存し、独立性は低い。組織が重たい日本では多言無用だろう。
第2に、誘惑や脅迫に晒されており、職や生命の保証もない。「事件」を追いながら不可解な死を遂げる記者も多いのはロシアと同じ。
第3に、日本では米国の大学にある「ジャーナリズム学科」、つまりプロとしての科学的方法論とトレーニングを教える機関が皆無に近い。因みに故ブルーザー・ブロディ(本名フランク・ゴーディッシュ)も新聞記者をしていたことがあるが、彼もウェストテキサス大のジャーナリズム学科を出ていた。
というわけで、プロにも(プロなるが故に)そう多くは期待できない。マスメディアは基本的にビジネス(日本では市場競争から保護されている)であり、言論機関でもあるが、それは広告主と読者の間の微妙なバランスに立っている。何かを言ったことで、売上が何億も飛んでしまうとしたら、経済活動としての安定性はないわけだ。そこでネット言論(ブロガー)に期待するのは、マスコミとは逆に、
- カネのために書いているのではない
- 比較的安全なところで書いている
- やろうと思えば自分で勉強できる
からである。もちろん、そうであるという保証は(プロと同様に)まったくないが、すくなくとも読者は購読料を払わなくても読んで評価することができる。ただ、筆者が一番期待するのは、藤代さんのような記者経験者や現役記者が自分でブログを持ち、広告費や給料から「自由な言論」を展開することである。すでに、多くの独立したジャーナリスト(元はマスコミで給料をもらっていた人)がブログを持っているし、それらが「ネット言論」の水準を高め、ますます豊かにしていくだろう。それによってマスメディアの言論も良くなる。 (03/28/2009)
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