電子出版2.0+ 事始め:「電子」の何が嬉しいのか? Think!
By Hiroki Kamata | 2009年 4月 7日
純粋にユーザーから考えて、電子出版には2つの大きな意味がある。一つは知識情報への自由なアクセスということ、いま一つは考える環境のサポートということだ。電子図書館/書店が世界中の知識情報へのアクセスを提供し、クラウドが世界中の計算機資源の利用を可能とし、そしてSNSが世界中の人との対話を可能とする21世紀に、われわれが期待するのは、知るための環境と同時に、考える環境としての「本」ではないだろうか。知識から知恵に至るプロセスを支援する環境は、機械文明時代のSF作家や科学者たちによって構想されてきた歴史があり、Web も 2.0 もその延長上に生まれた。21世紀的な電子出版環境は、人と対話する本を生む。
「世界中のすべての問題は、もし人間が考えることを厭わなければ簡単に解決できる。問題は、人間はどんな手を尽くしても頭を使わないで済ませたがることだ。考えるというのはそれほど難しい。」 T. J. ワトソン・シニア
考えないための手段から考えるための手段へ
‘Think’ というのは有名なIBMのモットーだが、ワトソン翁の偉大さは、人間はどちらかというと「考えない」ことを好むこと、そして「考える」ということの中に、人間が本能的に忌避したい何かがあることをよく知っていたことだろう。ビジネスは、会社の全員がそれぞれの持ち場で考えないと成長しないという信念を持っていた彼は、だから「考えろ」と言うだけでなく、インセンティブを用意することを忘れなかった。ワトソン翁を上司に持たないわれわれとしては、「考える」ことの何が嫌なのか、すこし考えてみよう。
筆者の経験では、おそらく次の3つが大きいと思う。
- 自分が不愉快と思う事実に出会い、それらを評価しなくてはならない
- 結論が簡単に見つからず、煩悶することになるかもしれない
- 他人に説明する必要が生じ、そのことで個人的にリスクが生じる
つまり、嫌な思い、辛い思いをして、他人に説明までして、その上周囲から孤立したり、嫌がられ、立場を危険にさらす、ということだ。子供の頃から下手な考えでもまずは褒めてやり、突飛に思える意見でも尊重し、リーダーには必ず説明責任を課す、といったことを社会的習慣として維持していないと、ますます考えなくなってしまうわけだ。ワトソン翁の国は、意見を表明する教育を重視しているのだが、それでも「あらゆる手段」で(実際には)考えないようにすることを、彼は見逃していない。まして日本は、考えることが要求されず、説明責任がなく、人と違う考えには相当のリスクが伴う国である。
それでも、とくにこんな時代、問題を解決するためには、考えなくてはならない(と考える人は大勢いる)。日本では、考えること自体はまったく社会的称賛の対象にはならないので、貧乏籤を引くリスクを甘んじて受ける現場の有徳者か、筆者のように他人に嫌われることを(すこししか)気にしない人間、最初から嫌いな人間に嫌な思いをさせたいと願う狷介な人間に分かれる。考えないための手段は山ほどあり、考えない誘惑も多いが、ここでは考える人を支援するための「考えるための手段」について考えることにする。
人が本を読む主な理由の一つは、知識が欲しいから。その主な理由の一つは、解決しなければならない問題があるからだろう。今夜の献立から新製品の開発、販売方法、公共政策まで、人は知識や知恵が欲しくて本を読む。それが考えることの第一歩だからだ。
連想と記憶の拡張 (Memory Extender)
人間は「知っているべきこと」を知らなかったために、あるいは「考えるべきこと」を考えなかったために膨大な資源を浪費している、とワトソン翁は考えた。彼の時代は(今もそうか)戦争と恐慌の時代であり、19世紀の科学・工学が生んだ「専門」を超え、それらを組み合わせながら「問題」と格闘しなくてはならなくなった。しかし、人々は適切な知識を持たずに誤った判断を繰り返し、科学者・技術者は重複を知らずに同じものを再発明している。必要とされる知識にアクセスする技術的手段が、まず考えられなければならなかった。知識は図書館に蓄えられていても、量が多いほどアクセスは困難となるからだ。図書館の分類は「専門」を前提としており、学際的・横断的な探索には向いていない。つまり、専門的知識・能力と学際的知識の両方がないと、膨大な知識情報は使えない
コンピュータのなかった時代、機動的な知識の保管・検索手段がマイクロフィルムであった時代、ヴァネヴァー・ブッシュは、MEMory EXtender (MEMEX=記憶拡張機)というものを構想した (1945)。これは分類をたどって行き着く図書館型の探索ではなく、ブックマークとリンクを使って人間の自由な「連想」をサポートする点で画期的なものだった。これはハイパーテキストとして1960年代には計算機上で実現され、さらにほぼ今日のWWWにつながる。ティム・バーナーズ=リーはインターネット (TCP/IP)環境でこの「記憶拡張機」を科学者・研究者・技術者のためにデザインしたのだが、職業的に「考える」必要のある人ばかりでなく、それ以外の人にも有効な手段であることが間もなく発見され、あまり共有の「記憶拡張」システムであるとは意識されなくなった。しかし、記憶(知識)と記憶(知識)を連想でつなぐ、という環境は普遍的になった。そしてサー・ティムは、さらにWWW全体を賢くする方法(セマンティックWeb)を構想している。ともかく、リンクの次はアクセスのインテリジェント化をまっしぐらに進んできた。
知能・知恵の増幅 (Intelligence Amplification=IA)
知識にたどり着けたとしても、それらを特定の問題・状況の打開にどのように使うかは別問題だ。知識だけでは解決できない問題がある。それが人間の知恵というもので、知恵を持った人の知識は知ることができても知恵そのものは読んで得られるものではない。では良い知恵を生みだすのを支援する機械はできないものか。ということで20世紀の科学はまず「知能・知恵の増幅 (Intelligence Amplification)」というコンセプトを考えつく。これはウィリアム・ロス・アシュビーというサイバネティクス研究者が1956年に初めて使ったと言われている。彼はもっぱら選択能力の増幅を論じたが、これはルールベースによって人間の選択を支援するという現在のITの潮流の一つを拓いた。
J.C.R. リックライダーは、ブッシュと同様に、現実のではなくまず仮想のシステムから発想し、人間の脳とコンピュータのシナジーを構想しようとした。コンピュータと対話しながら知恵を高めようというもので、そのための相互作用とインタフェースが発想されている。これは、「コミュニケーション装置としてのコンピュータ」というコンセプトとともに今日のUIの源流となっている。コンピュータは情報を「処理」するが、人間は機械との対話を繰り返しながら、知恵を高める。この場合の情報処理は仮説と実験の「シミュレーション」が主流となるだろう。ダグラス・エンゲルバートは、さらに情報の直接操作に踏み込み、個人とグループのプロセスの改善を目指した。これはネットワークによる「集合的知恵」の先駆といえる。
21世紀の電子出版/電子ブック環境
さて、われわれは21世紀的な電子ブックの基本的なアイデアが、1960年代には確立されていたこと、世紀の変わり目の大きな変化は、そうした環境の世界規模での実現に向けた前進であることを知った。次は、21世紀的な電子ブック環境、次世代のブラウザやeBookがどのような方向を目指しているかを、空想・妄想を恐れずに考えてみたい。ここでは電子ブックの個々のタイトルは、独立したものであると同時に集合的に双方向のリンクを持ったコンテンツライブラリであると考える。電子ブックのリーダーは、汎用機であろうと専用機であろうと、コンテンツとサービスを呼出すUIであると考える。そして知識と知恵が社会的なものである限り、コミュニケーション環境としてのSNSが標準的に必要なものと考える。
現在、これらはすべて、機能としては一般的に普及しているが、総合的にユーザーにとっての「考える」環境を支援していないし、UIはバラバラである。システムやサービスは、当然のことながら、それぞれのベンダーから見た「ユーザー」の利用環境として開発されており、ケータイ同様、機能やサービスが加わるほどに使いにくくなる。アプリケーションやデバイスのUIとして発展・肥大化してきたためだが、そろそろ逆から考えたほうがいい時期に来ている。情報に関するアクションは読むことから始まり、「本」はそのための最も自然なUIとなる。 (04/07/2009)
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