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新聞の終わり(の始まり)?:アメリカで地方紙が消える

By Hiroki Kamata | 2009年 5月 12日

アメリカの地方新聞が消えつつある。いや、正確には新聞というものが、…というべきなのかもしれない。配布地域が人口数百万人規模の大都市圏か、1万人前後の町かという規模はともかく、すべての(地方)新聞が小さいほうから消えつつあるのだ。米国を代表するNY Times、Boston Globeなど、どれも例外ではないほど、経営危機は深まっている。英国のThe Times は4月26日「アメリカの地方紙は死んだ。ローカルブログ万歳」という記事を載せて肯定的に評価したが、あまりに軽く響く。 

地方新聞は民主主義とジャーナリズムの基盤

あらためて言うまでもなく、アメリカという国にはもともと「全国紙」はなかった。ニューヨークやLAなどの大都市が世界に誇る日刊紙を持つのは、オーケストラやオペラハウス、美術館などの19世紀風の市民的文化施設を有するのと同様、とても自然なことであり、そればかりか人口数万人の都市でさえ、新聞は市民の誇りだった。ジャーナリストは小都市の現場報道で鍛えられ、大都市のメージャー・リーグを目ざした。メディアのプロは、社会にとって「何が情報か」を問うことで試されもするわけだが、ジャーナリズムの裾野が広いほど、レベルが高くなることは必然である。

ジャーナリズムは、あるべき「市民社会」というコンセプトを前提とする。市民社会の基本単位は(地方都市を中心とした)地域であり、それを基礎とすることで国家をも市民社会として仮想することが可能となるのだろう。民主主義が地方自治を基本とするというのと同じ原理だ。ここで「あるべき」というコンセプトは同じでも、現状の認識と処方は立ち位置などによって異なる。社会はけっして単眼では捉えられないから、多くの見方が提供されることが必要だ。それを可能とするのが、地方紙の伝統だった。しかし、地域の市民社会が、消費市場と重なることで、社会性が市場性と両立したジャーナリズムを育ててこれたのは、19-20世紀の米国で可能だった、歴史的現象だったのかもしれない。ただ、この「美しい」システムは、崩壊に任せるのはあまりにもったいない。世界遺産と呼べるほどのものだ。

市場性と社会性の調和の崩壊

ブログにも部分的にジャーナリズムは成り立つかもしれないが、ジャーナリズムは、医者、技術者、法律家、教育者、政治家、官僚や外交官、会計士、警察官、調理師などと同じく、専門性と職業倫理を維持する社会的システムを必要とする。商業新聞や雑誌は、そのために(曲がりなりにも)一定の役割を果たしてきた。ただ、医師に誤診や医療過誤が問われ、技術者も設計・製造責任が、会計士にも決算に対する責任が問われるのと比べると、「誤報道」「誘導記事」「提灯記事」などに対する自主的なチェックのシステムはない。また、プロフェッショナリズムには「個人」の自立が前提されているが、組織の中での「身分」保障がないと、職業倫理が犠牲になることを防げない。しかし何といっても、職業倫理は、職業的実践の中で育つ以外に育ちようがないわけで、それは医者や技術者と同じだ。

「市場」というものが、社会性を保ちつつ機能するためには、上述した市民社会原理とプロフェッショナリズムがどうしても必要だ。日本ではもともと市民社会原理が弱かった。カイシャなどの利益共同体を社会の基礎単位としたためである。すでにバブル崩壊以前から、職業倫理はしだいに「旧道徳」視されるようになっており、バブルとその後の「社会」の解体(これをマスコミは「改革」と呼んだ。「大合唱」の始まり)でガタガタになった。21世紀に入って、それは加速度的に進行して、われわれは「社会」に向き合う職業の倫理性を疑うようになった。これは会社の事業方針で報道・論説しているのに過ぎないのでは、という疑念だ。「草なぎ事件」をトップで取り上げたNHKの判断の基準に社会性があったとは信じ難い。(説明責任は果たしてほしいが)

ブログは「公器」のクラウドとなれるか?

いまブログに充満しているのは、そうした「怪しい公器」への批判、非難、悪口、雑言、愚痴、あるいは代替…である。それは時に社会性を持ち、また専門家が参加することで、ジャーナリズムも容易に持ちえない機能を果たすこともある。「小沢秘書逮捕」事件では、TV・新聞の「辞めろ大合唱」と誘導報道に対するカウンターバランスとして「ネット世論」が形成され、少なからぬ影響力を発揮した。しかし、これらにしても「マスコミ」と「ネット」との間接対話でなし得たことで、ブログを中心としたネット自体に自律可能な「社会的機能」を期待できるとも思えない。それにしてもマスコミが「大合唱」などの自殺行為を繰り返すなら、職業的役割(「伝える」だけなら広報・宣伝でよい)をブログに引き渡すことになるだろう。ブログに担えないとすれば、それは市民社会から退行することを意味するわけで、これは筆者のような旧時代の人間には「末法」の到来のように響く。

米国のある調査では、地方新聞がなくなることで市民生活に影響があるとする人は半数を割っており、強く惜しむ声は3分の1にとどまるということだ。新聞の購読者数が日本と比べてもともと高くないことを考えると、そんなものかとも思う。地方紙の役割を代替するものとしてローカルブログが注目されている。数ブロックといった地区単位の話題を提供するソーシャルネットワーキング的なメディアだ。ジャーナリズムとはやや次元が違うが、これは日本でも可能性があるだろう。 (05/12/2009)

Topics: 政治・経済・ビジネス, 電子ブック | No Comments »

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