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ガラパゴス「記者クラブ」:NYTが検証する“小沢報道”

By Hiroki Kamata | 2009年 5月 30日

「3月に東京地検が有力な野党指導者の秘書を逮捕し、打撃を与えるスキャンダルに手をつけたのは、堅塁に守られてきた自民党が来るべき選挙での敗北の危機に直面するさ中のこと。多くの日本人が不当性を非難したが、それは日本の大手新聞やTVネットワークからは知ることができなかった。/そのかわり、彼らはもっぱら建設会社から野党指導者の小沢一郎への違法な政治献金に関する出所不明の疑惑を額面どおりに報じ続けたが、中には捜査過程での意図的なリークも含まれていた。こうしたネガティブ報道が数週間続いた後、今月になって小沢氏は野党民主党代表の座を降りた。」

(マーティン・ファックラー、NY Times Online 5/29

という書き出しで始まるNY Timesのマーティン・ファックラー(Martin Fackler)記者の5月29日付記事、「スキャンダルの御用報道を非難されるメディア」は、「日本のタブー」であるメディアの独立性を正面から問題にしている点で、かなり出色のもの。どこかのブログがすでに翻訳していると思われるが、原文が分かりやすい英語なので、関心のある方は是非お読みいただきたい。日本のメディアに紹介されることはないだろうから。

日本的談合文化:相撲、メディア、政界、芸能界…

ファックラー記者は中西輝政 (京都大)、保坂展人 (社民党)、田島泰彦 (上智大)、宗像紀夫 (元名古屋高検検事長)の各氏からコメントを得、「当事者」として朝日新聞と東京新聞の司法記者に取材し(ほかにも何人かのジャーナリストから話を聞いている)、さらに東京地検にも取材しようとして(「記者クラブメンバーでない」という理由で)拒否されている。「小沢元代表秘書逮捕」問題についてのメディア報道に尋常でないものを感じ、ブログを含めて情報を集め、周辺取材を重ねて書いたようだ。

この記事を読んだ人は、日本のメディアと政府とは長年「ほぼ大手の国内報道機関のみ入会が許されるカルテル的な協定である、いわゆる記者クラブとして制度化」された関係でなれあってきたこと、また日本は政府が(予算の執行者として)国民に対し、原則的にあらゆる説明責任を負う民主主義国家ではなく、情報を選択的に与えることで報道を統制する、権威主義的国家であるという印象を持つだろう。「監視者 (watchdog)ではなく番犬(guarddog)」という田島教授の批判的コメントは、かなり強烈だ。日本人から見ると、中川前大臣のローマの休日(?)のごとく、当事者がバン記者と仲良くするのは、かなり自然なこと(欧米基準では犯罪的供応)でもあるのだが、欧米人の尺度では、これが「なれあい」と見える。そうでないという説明もむずかしいが。

「大手全国紙より元気のいい報道で知られる東京新聞は、先月、ある与党議員が小沢氏につながる建設会社から献金を受け取っていたという調査記事を書き、3週間にわたって東京地検検事への接触を禁じられた」と、ファックラー記者は“日本的言論封殺”が、情報遮断として行われることを紹介し、「小沢氏は、民主党が検察を含む日本の強力な官僚の権限縮小を選挙公約としたためにマークされた」という社民党・保坂議員の「政治的」コメントにつなげているのだが、この件に関して東京地検が取材拒否というは最悪の対応というしかない(中国やミャンマーでも公式コメントくらいは出す)。

マスコミが100回言えばゴミになる

日本のジャーナリストは「国民は日本の次期首相となるかもしれなかった人物について知る必要があった」として、スキャンダル報道ではスクープ合戦過熱してしまう、とも弁解して(朝日新聞氏)いるが、彼はこう断じる。

「だがそれでは、この事件で同じ建設会社が自民党議員にも献金した疑いについて徹底取材した記者がほとんどいなかったことの説明になっていない。/おそらく日本の記者のほとんどが認めると思うが、理由は検察のリードに従っているほうがオリジナルの記事で彼らの怒りを買う危険を冒すより楽だからだ。」

記者クラブ制度は相撲部屋とよく似ている。良くも悪くも日本的だ。しかし、正当な理由がなく排除された側は、怒りを募らせる。言論の自由は、多様な言論(論点と主張)が共存できなければ意味をもたない。最近の「言論」がネットに傾いているのも、大手メディアに多様性が乏しくなったためだ。さらに重要なことは、デジタル時代には同じような記事、同じような論説は商品価値をもたなくなるということだ。同質の情報源は、市場によって淘汰される。「同質な日本」が好きな人には気の毒だが、同じものは一つでいい。そして一つになれば、それ自身を守ることはできない。情報を「統一」してコントロールしようとしても、インターネットの世界では必ず破綻する。「北朝鮮ミサイル」騒ぎすぎの後遺症で、より深刻な核実験では騒ぐための関心も失せている。

この国にもゲッベルスの信奉者が多いようだが、デジタル時代には輪転機や電波の力は相対化される。「100回言えば真実」になるどころか、「100回言えばゴミ」になるのが21世紀だ。 (05/30/2009)

Topics: 政治・経済・ビジネス | 1 Comment »

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One Response to “ガラパゴス「記者クラブ」:NYTが検証する“小沢報道””

  1. Martin Fackler さんより:
    2009年 5月 31日 at 11:05 PM

    Kamata-san, Thank you for the message and for citing my story on your fine blog. I appreciate the feedback, and I’m glad if my work causes some people to stop and ponder. Actually, my impression is that many Japanese journalists at the big media outlets, particularly younger reporters, are very frustrated with the system, and wish they had more freedom to follow their consciences in their work. I hope in the future they get the chance to do the fine that they want to do, and of which they are fully capable. Thanks again, Martin Fackler

    鎌田さん。お便りとブログへの引用、ありがとう。今回の私の記事への反響には感謝しており、人々が立ち止まって考えるきっかけとなれば幸いです。実際、私の印象ですが、大手メディアのジャーナリストの多く、とくに若い記者は現在のシステムにとても不満で、職業的良心に従ってもっと自由な取材をすることを願っていると感じました。将来、ジャーナリストが望むような取材ができ、存分に力を発揮できる場が得られることを期待しています。ありがとう。 マーティン・ファックラーより  (以上、鎌田訳)

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