世襲こそ日本だ:襲うのは名(誉)か実(利)か?
By Hiroki Kamata | 2009年 6月 3日
自民党の「世襲禁止」問題は、けっきょく先送り、あるいは沙汰やみになりそうだ。それがいい。候補者の選出は、法の範囲内で政党が勝手に決めればいいことで、公明党や共産党の候補者選びに関係者以外、関心を持たないし、持つ必要もない。歌舞伎など古典芸能の襲名に「世論」が介入すべきでないのと同じように、と考えていた。菅選対副委員長が問題にするのは妥当だが、政治欄で取り上げるニュースとは思えない。
存在するものは合理的であるという観点に立ってみると、日本社会の「世襲」好きは、少なくとも江戸以来の文化であって、潜行はしても容易に変えられないものであることが分かる。なぜ上場企業で「大政奉還」ごっこが話題になるのか。なぜ企業(とくにマスコミ)で「縁故」採用が多いのか、なぜ芸能人に二世が多く、逆にプロスポーツでは稀なのか…。一部大手企業で「人質」とも呼ばれるセレブ社員は何のためにいるのか、その理由はたいていの人が知っている。これが「封建的な世襲」と違うのは、系図に載った「家(氏族)」の存続のため、時には血統や長幼にこだわらず襲名させた封建時代と異なり、名よりも「実」を継承させようという点だ。だから、よほど厳しい躾を受け、それを受け止められる人間でないと芸は廃れる。
日本社会は、「人脈」と呼ばれる人間関係に依るところが非常に多い。ヒト、モノ、カネ、そしてそれらに関する情報は、長期間維持されている人脈を通じて交換される。人脈は、かつて出身校と出身地が非常に大きな比重を占めていたが、まず(地域共同体の空洞化により)地縁が希薄化し、次いで(法曹界と官界を除き)学閥の結束力も弱まった。これらはグローバリゼーションが進めば弱まって当然だろう。それらに対して、最も確実な人脈戦略として血統あるいは閨閥による縁故の比重は、むしろ高まってきたように思われる。この希少な資産を失いたくない議員後援会は、確実に世襲に頼るようになる。世襲は議員の問題以上に後援会(に依存する党組織)の問題なのだ。いくら引退する親が「頼む」と頭を下げても、役に立たなければ相手にされない。
上場・非上場にかかわらず、企業の創業家のもつ求心力に社会が期待するのは、生命体としての企業が存続する上での正統性 (legitimacy)を評価しているからで、明らかに欧米とは異なる。だがトヨタの「大政奉還」は、欧米のビジネスメディアも当然視し、むしろ期待している。「日本とはそういう国だから、そういうやり方がいいのだろう」ということだ。株主や市場は、結果を期待しているのであって、オープン性を期待しているわけではない。政治家に求められるものが、政策と実現能力、有権者とのコミュニケーション能力であるとすれば、「世襲」がこれらの価値を損なっているかどうか、非世襲議員とのパフォーマンスの差があるかどうかを問題にすべきだろう。それを判断するのが選挙区民であることは言うまでもない。
議員は、利益誘導のために存在する地域ネットワークのノードとしての重要な役割を負っている(地元利益優先を批判するのはいいが、否定すると民主主義も否定することになる)。地方組織としては、最高のパフォーマンスを期待できる別の候補者を探せばいいわけだが、人脈を継承できる「世襲」が最も波風が立たないということなのだろう。世論やマスコミに叩かれようが、自民党は政党として地方組織を重視するしかない。共産党並みに「党中央」が専権的に公認候補を選定するようになれば、地方は無視され、問題を孕みながらかろうじて存在してきた日本的な民主主義も崩壊する。
世襲は見ていても楽しい。日本的な(かなり安っぽいが)ゆく河の流れのごとき王朝メロドラマが絶えることがない。彼らが地元の役に立っている(と判断される)限り世襲は続くだろう。それは、代々の人脈への依存を断ったかどうかのバロメーターでもあるわけだ。横須賀の二男坊氏は、YouTubeで拝見しても、将来を大いに期待させるものがある。三田佳子氏や中村雅俊氏のご子息のように、自己愛いっぱいの生き方を貫いた親をキリキリ舞いさせるのではないかと。今から待ち遠しくなるほどだ。 (06/02/2009)
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