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そのまんまの笑劇と日本の悲劇:中世が再来する

By Hiroki Kamata | 2009年 7月 5日

20090623-394186-1-l産業化が進む中でも、奇跡的に長らく農村的性格を維持してきた日本の社会は、いま鎌倉時代以来の「死」の時代(末法の世)を迎えているのかもしれない。1日100人という異常な自殺者の多さは、これも歴史をさかのぼることができるだろう。明治維新ですら変えずに生き残ってきた農村的性格が、いま急速に風化している。「バブル」から「小泉改革」までの過程は最後の鉄槌だったのかもしれない。バブルは共同体からの独立への幻想を生んだが、その崩壊と「改革」は、帰るべき共同体じたいを破壊してしまった。自民党などはその典型と言えるだろう。 

歴史としての自民党の崩壊

かつて自民党は、日本社会の多くのエリートを吸引し、指導者として最も必要な、常識(バランス感覚)と胆力、説得力を持った政治家を派閥リーダーとして選抜育成する派閥という純日本的なシステムを持っていた。ジェラルド・カーティス教授が賞賛するゆえんだ。いまそれは瀕死の状態にある。泉下の宮澤喜一元総理は、日本国の政権与党が「お笑い芸人」に頼る昨今の惨状をどうみているか。かつて「東」氏を買っていた中曽根大勲位も、あまりのことに気力もなくしたように見える。麻生総理も、自民党の歴史に最大の汚点を残すようなことはしなかった(「出来なかった」という面もあるかもしれないが)。

「東」氏は、本来(見かけのとおり?)上にへつらい下に粗暴という典型的にイヤな性格のようで、事務所内で暴行事件も起こしていた(被害者は今も怒っている)。1週間の大半を県外で過ごす、たいへんな「地方分権主義者」だ。「総裁候補」を望んだというが、そもそも自民党籍を持っているかどうかという肝心のことは誰も調べてくれない(モリケンと逆)。党首を人気で決めるような悪習を始めたのは、かの小泉氏だが、この人物が、戦略的に院政をしいた結果が「選挙の顔」方針なのだろう。誤算は幼君として践祚した安倍天皇が、下痢で夭逝されたことだろう。かつて「郵政の変」で配流の憂き目をみた貴族・武士も各地で立ち上がっている。小泉法王の好まないところでは森上皇が采配を振るう。さすがは古典的な派閥の領袖だ。しかし、いかんせん手ゴマが尽きている。

「芸人を政界に」の張本人は、もちろんマスコミだ。これもかつては「言論界」としての宗教的権威を纏っていた。宗門と永田町との関係も深く、安倍晋太郎田中六助(ともに故人)両氏のように、かつては人材供給源であったほどだ。冷戦以後、マスコミはもっぱら幻の存在である「無党派層」を分身としてつくりだし、「永田町」と「霞ヶ関」を交互に八百長攻撃して、自らの既得権益と「第4の権力」の座を維持してきたのだが、すべてが「市場化」する中、商売に熱中している間に、この権威が維持できなくなった。そこで、タレントや芸人を政界に送り込むことにしたように思われる。この毒のある虚無的な発想は誰の思いつきか。深謀か冗談かぜひ知りたい。

lcl0907040803001-n1マスコミは芸人政治家と一体だ。自分たちで選ぶ(仕立てる)ことができる。同じギョーカイの気安さもあるし、何といっても、自由に取り換えが利く。「人気」を操って政界に影響力が持てるからである。しかし、いいことづくめではない。いったん「言論」という法灯の権威を「願人坊主」に貸し与えれば、誰も権威など顧みなくなる。自分たちのつくりだした「フランケンシュタイン」(今回の主人公とどことなく似ている)は勝手に暴走し、制御が利かなくなる。世論調査と増長した芸人は、時に「鴨川の水、叡山の僧兵」と化す。それに、失った「言論の府」の信頼は取り返せない。これはマスコミのという以上に、国民的な損失でもある。政治家、官僚、教師、言論人は、高い倫理基準と社会的尊敬に値する職業だからだ。

ヨーロッパの近代は「死の舞踏」から生まれた

先日「死の舞踏」の喩を使ったが、戦争と疫病で人口の三割を失うほどの惨禍に遭った中世末期 (14世紀)のヨーロッパでは、身分上下の隔てなく、人々は集団ヒステリーから、しばしば半狂乱になって踊り狂った。しかるべき地位の人が、信じられない行動にも出ている。1世紀ほど後の人々は、すでに死と恐怖に対する免疫が出来ていたようで、「死の舞踏」は絵画のモチーフとしてポピュラーなものとなり、バロック時代は骸骨がこの陰影に富んだ時代をむしろ華麗に彩っている。人々は恐怖にかられて踊り、やがて恐怖から解放されて踊ったわけだ。

ヨーロッパ人の性格は、中世末期で一変しているように思える。ヨーロッパの「合理主義」や「人文思想」はこの後に生まれたもので、のちに資本主義やコンピュータを生み出すに至る「数量化革命」もそうだ。恐怖の後に生まれた「人間中心」の世界は、どこかニヒリズムの翳が漂っている。人間主義は神への不信と裏腹、個人主義は共同体との緊張と裏腹。緊張を背負って生きるには、社会観を貫く強いイデオロギー(王権、自由主義、共産主義など)か、それらの対極としてのニヒリズムを必要としたのだろう。

いま、温かく、湿っぽかったかつての共同体が壊れていく中で、日本のエスタブリッシュメントは集団ヒステリーに陥っているかに見える。集団ヒステリーは「死の舞踏」として展開する。エラい人が、しらふで考えられない行動に出る。それなりの教育を受けたはずの国民が暗愚の奈落に落ちていく。止めようとしても止められないし、巻き込まれないように気をつけるしかない。ドライにいえば、古代国家が中世に変わり、中世の崩壊から近世が生まれたように、この共同体も崩壊するしかないのだろう。

しかし、人間が生きている限り、歴史には(循環はあっても)終わりはない。地獄を経験し、生き残れば、そのうち「死の舞踏」を笑い「死の勝利」をスペクタクルとして、自分たちが生きている証として楽しめるようにもなるのだろう。いやいまから楽しんでも悪くない。ヨーロッパは「市民社会」という仮想の共同体を構築した。21世紀は同じようなわけにはいかないが、なんらかの共同体がないと人間は生きられないし市場も成り立たない。  (07/04/2009)

Topics: 近時片々(時論) | No Comments »

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