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日本的「技術神話」からの脱出

By Hiroki Kamata | 2009年 7月 25日

「…日本は、かつてのように大量生産型の耐久消費財を主として米国市場に輸出して稼ぎまくった発展途上国型の経済をすでに卒業して、十分な内需を持ちながら、なお高度の技術力で他の追随を許さない高品質=高付加価値の資本財を主としてアジア諸国に輸出して有り難がられている独特の成熟先進国型の経済に移行を果たしている。」(高野 孟「日本は“モノづくり資本主義”で世界をリードする!」 (THE JOURNAL 7/21)

「高」ならんとすれば「中」ならず:技術に必要なのはバランス

モノづくりの意義を強調した、高野 孟氏(『インサイダー』編集長)の論説の趣旨は(榊原英資著『大不況で世界はこう変わる!』への異論として噛み合っているかどうかは別として)首肯できるものだ。しかし気になったのは、「高度の技術力」「高品質=高付加価値」など、モノづくりにおいて、やたらに「高」を強調している点。筆者はこれを「文系特有の技術ロマンチシズム」あるいは「贔屓の引き倒し」と呼ぶが、これが日本の伝統的「技術」観を反映し、世間の常識でもあるだけに始末が悪い。技術大国神話の黄昏のころに登場するのも(日本軍の失敗の跡をなぞっているようで)具合が悪い。山本七平が名著『日本はなぜ敗れるのか』で指摘した「術・芸」の絶対化だ。

chinese_puddle_and_blast_furnaceまずテクノロジーとしての技術は、任意の「目的」のために、利用可能な科学的原理・工学的手段を使って最適な解を得るものとして存在する。例えば、水を扱う技術は用途によって異なる。飲料水、工業用水、農業用水…。それを扱う技術は、環境条件(河川、地下水、海水、汚染地、宇宙…)によって多種多様なものがあるが、要は目的に対する技術的手段のバランス(安全性、経済性、維持性…)が問題なのであって、高度な工学的手段がが必要になるのは、バランスを達成する手段としてだ。「高度」であればよいのではなく、役に立つかどうかが問題なのである。清水が湧き出るならば中空糸フィルターなど要らない。現在の日本が必要とするのは、システムとして雇用と国内市場の創造・拡大につながる技術、人々の生活を安定させ、活性化する技術であって、世界市場で勝てなくても構わない。輸出が絶対に必要となるのは、輸入のための外貨が必要だからだ。日本で享受できる自然・エネルギーをフルに利用できる技術があれば、外貨の需要は激減するし、もちろん輸出もできるだろう。(図版は宋応星『天工開物』より鋳鉄製造の図)

工業技術はビジネスの手段だ。トヨタ・プリウスとタタ・ナノのどちらが技術的に「高度」かを問うのは意味のないことだ。どちらもビジネスとして評価されるしかない。このところ、日本の「高度」技術が空回りしている。たとえば半導体だ。1980年代にはDRAMで世界を席巻し、この「産業のコメ」は、VCRなどと並んで日本の技術の象徴となった。(1) 量産を可能とする生産技術の高度化が、(2) 製品技術の高度化、(3) 市場への対応力の向上と結びつく、(4) 好循環(ビジネスモデル)を形成したことによって、欧米に対する一定の比較優位を確立した、ということだと思うが、素人眼は「高度なモノ」をつくる技術と高度な「モノづくり」、高度な製品を市場に提供する高度な技術(サービス)を区別しないし、文系の人間はそんな違いはどうでもいいことだと思ってしまう。しかし、この4つは異なるもので、それらが高度にバランスしないと「高度」なモノづくりは空回りしてしまう。経営とはそれほど複雑・微妙な「技術」だということだ。あまりに複雑すぎて、当事者にも成功の要因すら自覚できないことのほうが多い。非合理と思われた日本的経営が、じつは合理的側面も多々あったことなどは、壊してみて初めて価値を理解した例だろう。

半導体の凋落は「高度」信仰の結果

ctr_023150やることなすこと当たっている印象があった80年代の“技術バブル”は凄かった。この時期に、敗戦のショックで鳴りを潜めていた「制約の中での術・芸の絶対化」という日本人特有の心性が全面的に開花したのだと思う。バブル崩壊以後、中小町工場の職人を再評価する善意の議論は「匠」の賛美(その割に単価は絶対に上げない)と結びつき、「モノづくり」の神話化が加速した。日本の敗色がはっきりしてきたITに対する抵抗感もあったと思う。「日本はモノづくりでは負けない」というイデオロギーは、非技術的人間によって広められていった。

かつて世界を席巻した半導体の凋落は、日本的モノづくり(神話化)の顛末を物語っている。『週刊ダイヤモンド』の遠藤典子・副編集長のレポート「なぜ日本だけが儲からない?半導体世界戦争」は、大手総合電機メーカーの下で育った「半導体産業」は、親カイシャという“保育器”から市場に出ることができず、もがきながら、ついに瀕死の状態に陥った状態を明らかにしている。日本の「官民」が半導体を独自の産業として発展させることができず、逆にしてしまったのは、まさに高性能・高品質・高付加価値という「高度」信仰なのだ。困ったことに、市場から離れはじめると、関係者はきまって「市場は“高”を求めている」としていっそう“高”を志向し、バランスの良い製品を安く供給してほしい需要家と離れていってしまうという悪循環が形成されるのだ。

「高度」技術というのは、市場からの逃亡の合理化に使われやすいということに注意しなければならない。筆者は数年前まで、半導体の製造技術の関係者と話をする機会がよくあった。ソフトウェア軽視によって製品の競争力が失われ、それがますます高付加価値の“高度”製品に「最終秘密兵器」的にすがる心情を強めた、とその関係者は語っていたが、技術を物神化すれば自動的に市場から離れ始め、やがて「唯一の神」たる市場の罰が下るのだ。

素人的技術物神化と「世界一」志向

東洋経済の山田俊浩氏の「アップル躍進が示す“計画的陳腐化=モデルチェンジ”の終焉」は、日本のモノづくりの、もう一つの「十八番」であるモデルチェンジが、少なくともモノとサービス、コンテンツの融合である iPhone において崩壊していることを分かりやすく解説している。変えないことがユーザー価値になるのだとすれば、なにも膨大な資源を浪費してまでモノをつくる必要はない。モデルチェンジしないで売れれば、利益率はますます高くなる。このスタイルはゲーム業界では定着していたものだが、携帯のように高度な陳腐化志向を持つジャンルで成立させたことの意義は大きい。

snap01勘違いしないで欲しいのは、iPhone の筐体デザインに変化がなくても、ソフトウェアやUI、サービスのアップグレードは継続的に行われていること。筐体を変えないのは、操作性に大きな価値を置いているということであって、たんなるブランド性ではない。それを勘違いしたライバルが、PRADAフォンなどで対抗しようとしても話にならない。工業デザインは甘くはないのだが、素人眼にはアップルのブランドにPRADAブランドで対抗できると思うのだろう。まことに技術音痴とデザイン音痴は近いものがある。

もう一題。今度は航空機開発を取り上げてみたい(朝日新聞オンライン版 「空自次期輸送機、飛べるのはいつ 強度不足解決できず」(7/25))。次期輸送機 (C-X)プロジェクトは、自衛隊が現在運用する国産のC-1 に代わる輸送機を開発する大型プロジェクトで、2000年に着手され、3,500億円余を使ってまだ飛べていない。設計上の問題は解決できず、再設計が必要であることが判明した。つまり、実験機も出来なかったことになる。

航空機の開発は、およそ現代の技術的プロジェクトにおいて最も複雑で、工学的にもビジネス的にも最も失敗の多いものである。だからプロジェクトの失敗自体は大問題ではない。むしろ、成功を前提にしていたのだとしたらそのほうが問題だろう。そのくらいの難事業であり、しかも日本は国産機を継続的に手掛けた実績がない。産業的な裾野がほとんどできていないから、リベット1本でも問題を生じやすい。失敗の経験にも乏しい。システム工学的には、経験を積んだプロジェクト・マネージャーもいない国が、こうした大型プロジェクトを一度で成功させたら奇跡と呼んで差し支えないと思う。部分を集めても絶対にバランスのとれた「全体」にならないからだ。

40機という調達数の少なさからみて、まず独自開発では絶対に採算に合わない。C-130 という(バランス的にみて)世界最高の機体を現在の主力としている以上、それを補完する位置づけだから、本来は買ってくるのが現実的だ(防衛計画との関係は措いておく)。それでも開発にこだわるのであれば、それは日本の航空機産業育成という戦略的観点が不可欠だろう。つまり「悲願」でもある国産機だ。それには数兆円の資金を投入する、より長期・総合的な計画が必要で、3,000億円などというはした金で出来るものなら苦労はしない。「武器輸出」など政治的問題は避けたいという後ろ向きの姿勢が、現場の技術者へのプレッシャを強めたことは言うまでもない。

それにもかかわらず、C-Xでは「世界最高度の性能」が求められた(誰が何のために求めたのか知らないが)。最大積載量、航続距離、最大速度、STOL性アビオニクスなどでC-130をはるかに凌駕し、多用途性でこれに匹敵する、世界最高の国産(エンジンを除き)輸送機を、3,000億円で現実に開発できるならば、世界を驚嘆させるだろう。出来なかったからと言って文句は言えない。だが、こんな中途半端なプロジェクトを計画し、それにより禍根を残すことになったとすれば、防衛省の責任は問われる。戦略的意図が不明のまま F-22にこだわり続けたように、「最高性能」のものを揃えたいという発想はプロのものではない。

日本は立ち直れるか?

暗い話ばかりで恐縮だが、状況はこの15年で大きく悪化し、それと反比例して「善意の」技術信仰は強まっている。日本は様々に優れた技術はあるが、技術をまとめる(管理)技術が機能しなくなっている。「斐然として章を成すも、これを裁する所以を知らず」(論語・公冶長第五)という状態だ。「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」(韓愈・雑説)ということかもしれないが、カイシャがつぶれても技術者は残る。立ち直れることは間違いない。問題はいつまで「モノづくり神話」の迷妄が続くのか、日本のカイシャには、もう日本人の能力を引き出すことはできないのだろうか、ということだ。 (07/25/2009)

Topics: テクノロジーとビジネス, 書評(本・新聞・ブログ) | No Comments »

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