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リセット=戦略の時代へ (1)

By Hiroki Kamata | 2009年 8月 5日

「マニフェスト選挙」とか言われる割に、各党おしなべて政策立案能力は低いようで、それというのも、骨格となる国家戦略を策定した経験を持つ人材を欠いているためだろう。だから幹の見えない枝と花ばかりになってしまう。国家戦略が真面目に議論されたのは、1970年代か、せいぜい80年代初頭くらいまで、つまり戦後の苦労と成功の危うさを知っていた世代が日本をリードしていた時代までだったと思われる。戦略というものは、難題・難敵があり、利用可能な資源が限られ、代替手段それぞれにトレードオフが付いており、明日が過去の延長上に考えられず、リスクも大きいといった、苦しい状況の中で、既成概念や慣例に囚われず大胆に発想するところからしか生まれない。

市場の神話にしがみつかない

久しく戦略不要の時代を(先人の苦労と僥倖のおかげで)経験したのは結構なことだったかも知れないが、おかげで戦略を扱う経験を持たない人々、戦略思考ができそうもない人々をトップに担ぐ習慣が定着してしまった(過剰適応)。いまになって「決断力」「想像力」や「論理思考」「説明能力」を求めても、それに適した(例外的)人材は小学校以来の教育で淘汰されており、ニーズも乏しかったのでまず見つからない。あほらしいと知りつつ「受験」や「就活」のような(教育を無化する)愚劣な慣習をいまだに続けている、ということは、リーダー不要どころではなく、そうした人材をなお積極的に排除しているわけだ。その結果「人材選抜方法」として「世襲」が残ったわけで、これでは中国やインド、いやたいていの国に負けてしまうのは当然だろう。

とはいえ、必ずしも絶望的というわけではない。ボロ負けすれば、「戦略」と「戦略型人材」にもチャンスが出てくる。「国破れて戦略あり」だ。戦略は「狩猟民族」の発想で、「農耕民族」の日本にはなじまない、などとちゃらっぽこをのたまう人がいるが、日本史をちゃんと勉強しなおしたほうがいい。ご先祖は戦後世代よりよほど戦略的だった。国内的安定が2世代も続くと、ライバルを滅ぼすような競争を回避し、武器と戦略を「不祥の器」として封印する圧力がはたらくというだけだ。欧米はこれらをスポーツ化して戦技と用兵を保存したり、ビジネスに転用したりしてきたが、これらはオープン性を前提とする。日本の為政者はこれを嫌ったので、発展しなかったということだろう。

そこで、日本にとっての戦略というものを(大げさでなく)虚心に検討してみるのにいい時期に来ていると思う。日本の戦略はやはり経済と、その基盤をなす産業をどうするか、ということが基本とならざるを得ない。実質10%を超えている失業率もそうだが (*参照)、会社や役所など、なんらかの組織への所属が社会生活の基本となってきた社会で「定職」「定収入」を持てなくなった人々が多数出現し、増え続けていることが最大の問題と思うからだ。このままでは人口は減少し、教育水準も、労働力の質も劣化、治安も悪化する。個別にはITを使ってしのいだとしても、マクロ的にはさらに市場を空洞化する悪循環を拡大させる。

出発点は経済であって市場ではない。経済=市場ではないからだ。経済は人々の社会的生活(衣食住+コミュニケーション)を実現するものだが、これらをすべて市場から調達するようになると、生存自体を市場に委ねることになる。これは危なすぎる。世界人口の半数以上が、なるべく市場に参加しないことで生き延びている。彼らの生存を支えている穀物や油糧種子が石油の代替として商品化の範囲を拡大しただけで、たちまち飢餓に陥ったほどだ。日本でも、非市場経済の役割は(注目され、研究されないだけで)存外に大きい。市場が万能でなく、まして機能不全を起こしている現状では、非市場経済は、市場経済を活性化させるためにも積極的に活用すべきだし、またそれをITなどによって最適化することは可能だと思われる。もともと市場は非市場の存在によって成り立っている。それを世人が思い知らされるのは市場が「信用」と「実体」の両面で傷んだ場合だけだが。

「グローバリゼーション」の創造的制御

最大の問題は「グローバリゼーション」だろう。現状では、「グローバリゼーション」は、インドや中国のように産業的・金融的に「強い」国のためのもので、日本のためには(総じて)なっていないし、まして金融バブルがはじけた結果、これから20年は過去の過大消費のツケを支払うことになる米英のためにもならない(企業には今のところ移動の自由があるが)。「グローバリゼーション」は不可避であるという人は、その時点で思考停止している。世界史的にみて「グローバリゼーション」とその解体は何度も起きている。それが人々の生存を許容しないなら、それは民族大移動や革命、戦争などの荒っぽいやり方で(多くは市場を支えた文明もろとも)粉微塵に破壊される。むしろ放っておくほど崩壊の危険は増大するのだ。

市場経済と自由貿易を「信奉」するのは自由だが、それは「計画経済」を信奉するのとたいして変わるところがない。だから、この2つの前提もとりあえず外さないと、議論はストップしてしまうだろう。もっとも「共産主義の崩壊」で、ソ連・東欧の共産党幹部が「民営化」で資本家に衣替えしたように、日本の経営者たちも、素直に退場したりはせず、身分保障と引き換えに「計画経済」(破綻企業の支援)を支持するようになりつつあるようだが。

市場経済と自由貿易、それを放任した「グローバリゼーション」は、とりあえずカッコに入れて考えよう。もともとこれらは(そうでない部分から意識的に目を逸らした)カッコ付きの存在だったのだから、それを明示化し、制御を可視化しようというだけだ。経済のことはプラグマチックに考えたほうがよい。もともと経済とはそうしたものなのだ。人々の生存(再生産)と社会的生活がとりあえず成り立つ方法を確保し、そこからより成長指向な(つまり競争的・革新的でリスキーな)分野を拡大していくしかない。その際の鍵は、官僚化しすでに命数の尽きた「日本的大企業モデル」の再編と活性化、そして北欧のような(セーフティネットとしての)社会意識だろう。

市場の拡大期には、競争は敗者を生まない。市場が大きく、リスクが少なければ大企業に分があり、中小企業はその傘下にあっても安定と成長を享受できる。敗者が生まれるのは、市場が成熟し、寡占化する段階だ。大企業は生き残りのために合併や系列の「切り捨て」に走る。市場開拓力をもたない中小企業は、優れた能力を持ちながらビジネスモデルを選択できないままに敗者となる可能性が大きいのが問題だ。日本社会は、寡占化した大企業が敗者にならない(それじたい社会的に高コストな)存在として君臨し、傘下の事業の成長力を縛り、ほんらい成長力のあるべき中小企業の活動余地を狭め、リスクを高くしている。これは政策的に是正が可能であるし、すべきだろう。中小企業を活性化することが、新しい大企業モデルの形成の前提にもなる。

と思っていたら、思わぬところに筆者より先を行く人がいることを知った。内閣官房・参事官の藤 和彦氏である。日経ビジネスオンライン (7/24)でのインタビューで、このように述べておられる。

「だから、こういう大恐慌みたいな異常事態時には、自由貿易が必ずしもいいとは言えないんです。むしろ、保護貿易と組み合わせたマイルドな方式の方が、景気回復にはプラスかもしれない。とにかく、異常時には異常時の発想が必要。極論を言えば、『鎖国』の議論をしてもいいくらいだと、私は思っています。 」

この大胆な議論の前提は、

といったことなのだが、じつに説得力がある。江戸時代の「鎖国」については多くの誤解があり、実際には日本は世界経済から孤立していたわけではなく、総体として発展が遅れたわけでもなかった。ただ社会的な情報の遮断により人々がそのように錯覚したことが「近代化」以後の暴走につながったのだと思う。この情報化の時代こそ「鎖国」つまり保護貿易を厳しい条件のもとに使うことが問われていると思われる。 (08/05/2009=続く)

* 野口悠紀雄 「日本の潜在的失業率は14%!その解決にまったく役立たない各党の雇用政策」 ダイヤモンド・オンライン」8月1日

Topics: 政治・経済・ビジネス, 現代世界論 | No Comments »

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