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アイドル文化は不滅か:「清純」崇拝の裏側

By Hiroki Kamata | 2009年 8月 18日

immaturity_symbolTVでは、すでに選挙に嫌気がさしたようで「酒井法子事件」が暑苦しい。これほど視聴率を稼げるネタも他にないせいか、はるかに重たい「六本木ヒルズ変死事件」は素通りしているのが見苦しい。視聴率的には「アイドル」の威力はまだ健在だということだ。1980年代には、このユニークな風俗現象を理解しようと『よい子の歌謡曲』などを購読していた筆者としても、無関心なわけではない。アイドルは戦後の大衆文化の核心だった。いま「正統」は崩壊し、無数の「…ドル」として消費されているが、その行方は日本の今後にとっても重要な意味をもっているように思う。

社会風俗的意味で「アイドル」が初めて使われたのは、1940年代の米国だったそうだ。初代はフランク・シナトラというが、1970年代の日本で「若年層に向けた歌謡曲を歌う清純派歌手」(Wiki)に対して使われたことは、日本的マス・カルチャーの 時代を象徴するものだった。ここで「清純派」というのがキーワードだ。やや廃れたとはいえ、まだカテゴリーとして通用しているし、中華圏にはそ のまま輸出したほどのソフトパワーもある。清純というのは、 ①世間ずれしていない、②「肉体派」でない (異性経験がなさそう)、③容姿・才能ともに十人並み、といった意味だろうが、そうした「隣のおねいちゃん」を偶像化することが面白いわけだ。キリスト教では神が人間イエスとなって降臨したことを「受肉」というが、日本では生身の人間が「隣のおねいちゃん」として聖別され偶像となった。救済の対象は誰か?

欧米では上述した意味での「アイドル」は存在しないし、ティーンの「アイドル」は社会的には認知されない。偶像崇拝 (英=idolatry)が宗教的に禁止されている文化では、アイドルに神の属性(つまり「超」性)を求める傾向があるようで、「並」である存在を崇めるのは理解できないのだろう。「超」性の象徴としての「スーパースター」は、そのために苦しみ、てっとり早く安らぎや自信を与えてくれるヘロインやコカイン(とくに後者)、あるいは霊感の代用になるLSDなどの薬物に溺れるケースが多い。すべて「超」性を保持せんがためだ。ファンも社会も、そうした神ならぬ人間の苦悩には同情的で、彼らをドラッグ犯罪者(密造・運搬・販売関係者)と同一視はしない。アル中と同じく温かく迎えようとする。だから多くの「スーパースター」が社会復帰を遂げている。

わが「隣のおねいちゃん」はどうだろう。いずれも中流以下の出身。酒井氏などの場合は父親が「組」関係者であるなど、人並み以上の不幸を背負っていた。仕事とはいえ、20年以上も「清純派」を続けてきた人間的苦悩は察するに余りある(と思ってしまう)。薬物に手を出す心境は、アメリカの「スーパー」スターと本質的に同じものかも知れない。薬物に逃げない方法があるとすれば、脳内モルヒネとしての自己愛に浸ることだろう。つまりアイドルとしての自分の似姿をひたすら愛し、演じ続けることだ。メディアの全面支援も得られるので、そちらの例には事欠かない。古くは「原節子」「岸恵子」あたりから「吉永小百合」「松田聖子」「広末涼子」などなど。ただ「世間」に応えて成熟と老化を拒否すると人間離れが進むので、妖怪のような、底知れぬ不気味さが増してくる。神に属するものではない、偽りの「超」性が磨かれてくるせいか。

筆者が今回酒井氏に強い印象を受けたのは、警察に対して「この辱めをどうしてくれるの!?」とか「任意なのか強制なのか?」(出典は警職法)と毅然として言い放ったこと。「世間ずれしていない」どころか、世間の辛酸をなめ尽くした、成熟したオトナの一喝。そのスジの凄味さえあったろう。ダメオトコ社会を救済する「隣のおねいちゃん」の偶像が壊れて困るのは本人ではなく、メディアだ。司法当局の処分が決定すれば、あとは勝手に修復しようとはかるだろう。

なぜかといえば、つねに「世間ずれしていない」存在を必要とし、記号としてのアイドルを操作することで生き延びてきたのは、日本的ギョーカイであり、「カワイ」さ「ひたむき」さを求め、成熟を否定する日本の支配的文化なのだから。これはひたすら青少年に「世間の垢」に染まってていない「純真」さを要求する「世間」側のイデオロギーのしからしむるところで、タテマエとしての社会の裏側に存在する「世間」を飾り、護る盾としての「清純」の象徴がアイドルなのだと思う。問題は、このイデオロギーを教条化してきた体制そのものになお命数があるかどうかだ。 (08/18/2009)

Topics: 近時片々(時論) | No Comments »

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