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“官・報複合体”の行方:日本はふつうの国になれるか

By Hiroki Kamata | 2009年 10月 6日

economist権威主義的体制では、国民が目に触れてよい情報(とくにニュース)は、慎重にコントロールされる。報道機関は国家権力の一部なので、検閲は不要。何をニュースとし、どう扱うべきかは、「体制」の利害と政策方針を考慮し、担当者の合議(あるいは指導者の判断)で「政治的」に決められる。このシステムでは、体制の安定がすべてに優先される。だから、こういう国のニュースを注意深く観察すると、当局が何をどう伝えたいのか、あるいは知らせたくないか、丸見えとなる。アナリストの出番だ。日本は、中国や北朝鮮などと同じく、この方法が通用する国だ。

非競争的社会の最後の番人

公式には敗戦とともに、日本は権威主義的体制から離れ、アメリカの指導のもと「民主主義と市場経済」を信奉する国家として生まれ変わったことになっている。しかし現実にはかなり中途半端だった。この国で本気で市場経済を信奉しているのは、池田信夫先生くらいなものではないか。それほどこの国には市場の機能を阻む規制が多い。しかも弱者よりも強者が守られており、ガラパゴスの食物連鎖の頂点に立つ「強者」は、ついに弱者を守る規制の撤廃に成功し、生態のバランスを崩すほどの弱肉強食を現出した。これが日本的市場原理主義。他方で「公共の」周波数帯は、依然タダ同然で貸与され、再販制度に守られた大新聞は、虚構の発行部数を維持するため(だけ)にCO2を生み、森を消滅させている。世界一高い電力料金、鉄道・航空料金、有料の高速道路などは、すべて強者たちを保護した結果だ。

こうした「旧体制」は、自民党長期政権と官僚支配のせいだということになっているが、それだけではない。社会の公器と言われる「マスメディア」が深く絡んで初めて成立する。メディアが何かについてその「主張」を明確にし、あたかも自明の正義であるかのように異口同音に語る時、それは(思考停止という以上に)メディアが体制の一員として、なんらかの利益に与っていることを物語っている。多様な見方や情報を提供すべき報道・言論機関が、その役割を放棄すれば、それは広報・宣伝機関ということになる。自らがステークホルダーとなっている問題について語る時には、(政治資金の収支報告が義務付けられるように)その関係について「情報開示」をするのが民主主義社会のルールだが、そうしたことがなされた例を知らない。

英誌 Economist 9月24日付は、上杉 隆氏の言う、この世にも奇妙な“官-報複合体(bureaucracy-media complex)”に終わりは来るか、と論じているし、ニューズウィーク日本版では、仏 Figaro 紙のレジス・アルノー記者が、かなり辛辣に書いている(下記引用)。しかしこの国の新聞は、新政権下での「記者会見」開放問題を無視。逆に「官僚会見禁止」には異口同音で「国民の知る権利を侵す」と猛烈に反発している。つまり「体制」の維持のために、ニュースを隠蔽し、あるいは一方的・断定的に論じるという、権威主義的体制の「報道(広報)機関」に相応しい行動に及んでいるのだ。この足並みの揃え方は、北朝鮮の官報2紙のような見事なシンクロを見せている。

日本のメディアは欧米のジャーナリストから奇異な目で見られている。そのことも国民は知らない。北朝鮮のように。メディアが発信する情報の内容は、文化のバロメータだ。だから、このように書かれるのは日本人として胸が痛む。

日本の報道機関はその規模と仕事熱心な姿勢で名高い。だが知性あふれる人材を多数そろえながら、ここまで非生産的なメディアも珍しい。やる気のなさは、まるで冬眠中のクマ。けれどもひとたび──めったにないことだが──獲物が現れるや、一撃で残酷に息の根を止める。
酒井法子被告をたたきのめしたのもそうだ。テレビ局はヘリコプターまで動員し、謝罪会見に向かう酒井の車を追った。ヘリを飛ばすのに1分いくらかかると思っているのか。二酸化炭素をどれほど排出するか。それだけの価値がある情報なのか。人をリンチするのが報道なのか。
政権交代でも思考停止の日本メディア」  レジス・アルノー、Newsweek日本語版オンライン、9月28日付コラム

求められるのは社会に対する責任感とプロ意識

同じように胸を痛めた(いや腹を立てた)人が、「日本の『マスゴミ』そんなに劣っているのか フランス人記者の「批判」に反論する」という記事を書いているのだが(岩瀬 大輔、J-CASTニュース、10月1日)、筋違いで、さらに恥ずかしくなる。いわく、ジャーナリズムといえども商売で、聖人君子ではない。生きていくって大変なのよ…。

もとより誰も聖人君子を期待してはいない。最低限の(できれば最高の)プロフェッショナリズムが期待されているのだ。それは公認会計士、建築士、弁護士、あるいはプロスポーツ選手などに求められるものと変わりない。公認会計士が生活のために不正を見逃し、虚偽の決算を容認したら、市場経済に対する犯罪となる。建築士や検査機関も同様。スポーツ選手にはドーピングが禁止されている。プロとして失格ならその世界からは追放される。ではジャーナリズムはどうだろう。重要なニュースに目をつぶり、地道な取材や調査を怠り、力のあるものに与して一面的・一方的な情報を流し続けたら、本質的には市民社会に対する犯罪行為というべきだ(クズにも「報道言論の自由」はあるが、関係者の生活のためにクズを掴まされる側はたまらない)。プロには職業的な “due diligence” が要求される。メーカーには「欠陥商品をつくる自由」などはないのに「言論人」にだけはあるのか。

海外から「思考停止」と言われるのは、議論を回避し、説明責任を免れてきた結果だ。大新聞は放送利権を与えられてマードックなしで巨大化し、メディアの巨大化は「言論」を不要にした。使わない脳は退化する。鮫や熊の脳みそ(と恐竜の胃袋)を持った人間が淘汰されて残ったというわけだ。もちろん、政権党がこの(居心地のいい)なれ合いを止め、メディアビジネスに競争原理を持ち込めば、この関係は終わる。可能性は、まだ50%はあると思う。

「新聞のない政府か政府のない新聞か、どちらを選ぶかと聞かれたら、私は迷わず後者を選ぶ。」(トーマス・ジェファーソン)と極言されるほど、「民主主義と市場経済」においてジャーナリズム(とその他のプロフェッショナリズム)は重要だ。それを信じていない人は、はっきりそう言うべきだろう。そして日本では「民主主義と市場経済」はパロディにしかならないと認めたほうがいい。民主主義が機能しない時には市場もまともではあり得ない。ジャーナリズムが機能しない時には、民主主義も市場もまともではあり得ないのだから。 (10月6日) ☆

Topics: 政治・経済・ビジネス | No Comments »

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