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異形、異能、異才…そして異人:朝青龍こそ神である

By admin | 2010年 2月 5日

相撲は怪力の異形者が業を競う、日本の伝統、そして民衆の神事でもある。天皇に召され、大名のお抱えとなっても、この異形者たちに人々が求めたのは常人の想像を超えた力であってお上品な行儀作法ではもちろんない。日本人は異(い)なるものに「神」を見た。日本人は怪異を祀り、利益を祈りつつ祟りを畏れる。だからこそ異形者たちは四股を踏み、神社に不可欠な、地を祭る神事を行うのだ。日本の神々は「怪力乱神」なのだから。

わが神々は全知全能に非ず、善神でもなければ成就者でもない。異なる者とその精霊たちであり、それこそが人間が畏敬すべき「自然」の象徴である。本朝角力の嚆矢とされる出雲の勇士・野見宿禰は、大和の強力・当麻蹴速と生死を賭けて戦い、ともに神と祀られたが、この時宿禰は蹴速を蹴殺している。なぜ両者が神となったか。二人が戦う姿に古代人は神を見たからだ。

訳知り顔で相撲の「伝統」を語る者には言わせておこう。武士の道ではなく、明治の官製「武士道」を語る輩と同様、彼らは日本について何も理解していない。そして尊重してもいない。民衆が相撲に品格を求めたことはないし、むしろ異形者にふさわしい豪放磊落、奔放不羈、自由闊達、暴飲暴食、精力絶倫、金離れのよさを喜び、期待し、競ってタニマチになり、あるいはおこぼれに与かろうとした。異形者 (freak)だったからだ。異形こそ自然の相貌なのだ。

相撲は空腹を抱えた貧しい異形の少年が、厳しいイジメ(この世界でかわいがりという)と怪我の痛みに耐えつつ、人間扱いが許される関取となり、やがて大関・横綱に出世する古典的なジャパニーズ・ドリームの世界だ。日本の子供たちがそこに夢を見なくなったのは、空腹の恐怖と異形への憧れがともに減っていったからだ。逆に地球には相撲をドリームの世界と見る若者がいる。日本の神々は彼らを招き寄せている。ありがたいことだ。

希世の大横綱朝青龍こそ、日本の伝統としての相撲にふさわしい勇士である。日本に渡った蒼き狼、チンギス・ハーンである。神を敬うことを忘れた日本にあって、かれは独り戦い、心身ともに傷つきつつ、耐えた。そして25の優勝を成し遂げた。日本人として彼を称えられないものは、愚かにも、不幸にも日本の心を知らない。ロシア人の子である大横綱、大鵬の記録に迫ることは出来なかったが、それは大鵬の時代と違って人気(じんき)が悪すぎたためといえる。

聞け小人たちよ! 同じて和すことなき小人たち。毛を吹いて疵を求め、異能を罪とするリリパットの民よ。汝らは異形者にたかり、強請り、妬み、伝統を言いたてつつ自らの無知と無恥を晒している。世界の異能者を集めることは、日本がその独自の伝統をもって世界の大国となる唯一の道である。汝らはいま日本を滅ぼそうとしている。

朝青龍を追放した者どもは恐れるがよい。覚悟するがよい。神は末代まで祟る。けっして汝らを許さないであろう。しかしもし神を畏れ敬う気持ちを学び、神社を建てて朝青龍を神と祀るならば(もしかして)許されるかもしれない。朝青龍は武人であり、わが古代人の心と身体を持っているから。

「言いたくないが認めなければならないことは、今回のすべてが集団ヒステリーの兆候だということだ。ヒステリーはアイデンティティの危機にたいする防衛反応だという。なんで日本人は危険な状態に陥ったのだろう。これが性善説の社会なのだろうか。」(拙文 「誰の品格が問題なのか:朝青龍問題を考える」 8/5/2007)

「大鵬、拳銃所持。北の富士、仮病で休場、ハワイでデート。北尾、ナイフ収集、暴力沙汰繰り返し。相撲の品格は今も昔も…だから相撲は好きでした。」 (某氏 Twitterより無断引用)

参考記事

「スティーブン・ジェラード逮捕を読む:英国式武士道」 拙文

誰の品格が問題なのか:朝青龍問題を考える

Topics: スポーツ, 近時片々(時論) | No Comments »

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