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「鎖国/開国」論と日本の罠

By admin | 2010年 4月 29日

日経新聞の「未来面」が「世界一『世界人』の多い国、日本へ」のアイデアを募集していた。つい数日前、CNET Japanのブログで、丸山 宏氏の書いた「知の鎖国」というコラムを読んだばかりだが、最近はやたら「鎖国/開国」というイメージが意識されている。しかし「鎖国/開国」論が、日本社会の真の問題である閉鎖性に切り込むことはほとんどない。おそらくそれは閉鎖性の本体である日本の「エリート」から発信され、コントロールされているからだろう。彼らは自ら「坂本龍馬」の夢を見ることなく、「夜明け前」には死んでくれる捨て石の登場を期待している。

「鎖国/開国」論は、外国からのプレッシャー(「黒船」あるいは「世界の壁」)に対してどう立ち向かうか、という形で提示される。それは必ず近代主義的な「改革」、つまり集権的な、有無を言わさぬものである。黒船は日本を「植民地化」しようとしていた。結束して立ち向かい、列強に抗して周辺を支配する以外に生きられなかった、と決めてかかっている。これは(大化改新→天下統一→維新と連続させる)明治以来の歴史教育の成果で、ほとんどの日本人は疑わないが、筆者はこれをフィクションだと思っている。実際には日本はもともと「鎖国」などされていなかったし、日本を支配する意図を持って、それを実行したのは戦後のアメリカくらいなものだろう(それも完全な植民地にしたのは沖縄だけだった)。「植民地化」はそこから直接的な利益が得られる場合しか行われたためしがない。

日本人は英語が下手なのではなく、言語能力が封殺されている

さて、丸山氏は、紛れもない「世界人」である小林久志博士(プリンストン大学名誉教授)がブログに書かれたメッセージを紹介し、さらにその中で引用されたアイヴァン・ホールの『知の鎖国』(1998)の日本分析を紹介しつつ、国際化の必要を訴えておられる。すべて納得できることだが、にもかかわらず、原因と対策についての筆者の考え方はまるで違う。

丸山氏は原因として、まず「日本人の英語力」を挙げる。日本企業におけるTOEICスコアの平均は456点。韓国の大企業は800点以下は不採用なのだそうだ。日本人の英語力については散々言われてきたが、筆者なりの結論はこうだ。英語力というのは、原因ではなく結果である。日本人は、むしろ「教育」によって英語を使えなくされている。英語教育の内容もたしかに悪いが、それさえ原因ではなく結果である。そもそも日本社会の中で、言語コミュニケーションが軽視されている。これは「考える」ことを軽視した教育の結果だが、なぜそんなことを続けたかと言えば、むしろ「考えない」ことが期待されているというほかない。

英語に限らず、外国語を使うには「個人」であることが要求される。それは知性教養とも関係ない。自分で自分を代表できるかどうかの問題だ。外国に行って、教育など受けたことのない自然児のような子供たちが英語を器用に使うのを驚くことがあるが、それは彼らのほうが、教育を受けた一般の日本人よりも「個人」としての全体性を持っているからだ。サッカーの世界では、日本人選手ほどコーチに従順な者はいないという。海外では少年でさえ、プレー中に指示を出すコーチに「黙れ!」と怒鳴る姿がよく見かけられるらしい。早い話が、日本人には自信がない、持つことを禁止されているのである。互いに肩書も身分も知らない相手に、なんと言っていいのか、わからない。これは教育がないからではなく、日本的な教育を受けたせいだ。教育を受けるほど、見知らぬ世界で生きる自信がなくなるような教育とはいかがなものか。

戦後の教育は、人間を社会を構成する主体として育てず、いわば静的なシステムを構成する部品としての品質や精度を求めてきた。戦前の教育は統率者と庶人を分けていたので、まだバランスが取れていたのだが、戦後の「民主教育」は、それを否定したために、試験の成績以外に「能力」を判定する基準がなくなった。試験は問題に対する正解を発見(あるいは選択)する能力だけを問題にし、問題そのものについての疑問を排除する。現実の複雑な問題を解決する能力が、教育で得られることはない。結果として、容易に答の得られない研究やビジネスから人を遠ざけていく。スポーツや遊び、バイトでもやっているほうが、よほど「現実」と直面できるだろう。教育における「選択と集中」は、戦争さえやらなければ、農耕民族が機械文明に適応するには最善の教育と言えたかもしれない。しかし、言語を基本とする情報文明は、すべてを再定義した。計算機には「以心伝心」はきかない。疑問を持たないとシステムは陳腐化する。言語能力を高めない限りは、インド人や中国人、韓国人に引き離される一方なのだが、言語能力とは疑問能力 (5W1H)を前提としたコミュニケーションのことなのだ。

言語能力(弁舌ではない)を軽視あるいは危険視する日本では、むしろそれは封印されているのである。したがって、英語がほんとうに使えるようになるほど、日本企業にあっては肩身が狭くなる。悪くするとガイジン扱いされるといってもいい。外国人から信頼されると余計具合が悪い。妬まれ、警戒され、あるいは「英語使い」という特殊なカーストに分類されることが多い。言葉の問題ではなく文化の問題だからだ。第1に、日本語を話す時と英語の時とで、インタフェース(時に人格)を変えなければならない。日本語では、はっきり自分の考えを言ってはならず、英語では自分の考えを言わないと相手にされない。完全に逆なのだ。中国人や韓国人がこんな文化的ギャップに悩まされることはない。第2に、首尾よく切り替えが出来るようになったとしても、その後で深刻に悩むことになる。何のために、窮屈な思いをしてまで「日本」に合わせる必要があるのか、と。これは次の問題につながる。

コミュニケーションと意思決定プロセス

丸山氏は「英語力」の次に「意思決定プロセス」の問題を挙げ、ホールの前掲書にある、日本語を流暢に話す外国人が、意思決定の場から意識的に排除されている問題を取上げている。また若い人が「偉い人はなぜ議論の最初から多くの利害関係者を入れるのを嫌がるのだろう」と疑問を持った例を紹介する。そろそろ問題の核心に近づいてきた。問題は英語力では全然ない。言語力である。そして言語コミュニケーションと集団的決定のあり方なのだ。プロセスはルールに基づく。透明なプロセスには客観的で公正なルールが必要だ。日本の問題は、普遍的に妥当性を主張できるルールがつくれないということなのである。これは山本七平著『日本はなぜ敗れるのか』(角川書店、2004年)に余すところなく述べられている。

エラい人の「思惑」や「空気」「目線」で物事を決められてはかなわない、と誰でも本音では思うが、それを口に出して言う人間は少ない。しかし、外人は言うだろうし、女性も黙っていない可能性が強い。若者はこの暗黙の「掟」を知らないので危険だ。ということで、組織では「安全」な人間によってのみ動かされることになる。だから、排除されているのは、外人だけでなく、社内の女性や若者、あるいは「利害関係者」であり、排除しているのは「偉い人」とその後継者たちだ。こうした組織で、グローバリゼーションに立ち向かうとすれば、正面からぶつかる度胸など元々ないとすれば、先方から無視されやすくすることしかないだろう。日本の影かどんどん薄くなってきたのは、自ら望んだ結果なのだ。男女雇用機会均等法は、女性の「地位」向上にはほとんどつながらなかった。逆に、明確な差別があった時代に比べて、組織は緊張感も機能も低下させている。

グローバルな社会では、リーダーには何よりも部下や利害関係者に対して説明する「能力」が要求されるし、部下には疑問があれば質問をして確認することが認められている。そうでないと組織は機能しない。部下が従わないからだ。だから透明性のない社会は絶対にグローバルになれない。日本の「意思決定プロセス」が不透明なのは(とくに公然の)秘密があまりに多いからだ。秘密が多くなるほどローカルになり、ダイナミズムは低下する。最終的に組織も人間も、前向きに頭を働かせることがなくなる。意思決定プロセスの閉鎖性は、日本における「リーダーシップ」の不足と結びついている。社内、国内ですら指導力のない人間が、どうして世界で通用するだろうか。これは前述したコミュニケーション能力、言語能力の低さと直結している。

日本語でまともな会話が少ない状態では、外国語での会話などさらに難しい。ふだんは仲間うちの、あるいは「目上」との控え目な応答に終始している人間が、急に外国語での「会話」に臨むには、外国語の能力ではなく、マインドセットの切替というかなり複雑な能力が必要となるのだが、そんなことは誰も教えてくれないので、外国語コンプレックスに悩むことになる。だがこのコンプレックスの本質は、日本社会が仕掛ける罠、つまり「世界の壁」に見せかけた罠の一つだ。日本人はガイジンとは話ができない。日本でしか生きられない、と思い込ませるのもその一つ。しかも驚くほどうまくいっている。

アイヴァン・ホールは、日本の知識社会、特に、法曹界、ジャーナリズム、高等教育(大学)が、外国人に対して閉鎖的であることを明らかにし、批判した。閉鎖的であるのは、(1) オープンなルールの代わりに秘密を持っている、(2) 実力や仕事に対して自信がない、(3) 個人として独立していない、ためである。だが、閉鎖社会に属さないと「出世」はできない、是非善悪は閉鎖社会で決められるので、うかつなことは言えない。権威に挑戦すると看做されれば、狭い世間で生き残ることは難しい。だからほとんどの人間は、深刻なコンプレックスを秘めた組織文化に染まってしまう。人は日本人に生まれるのではない。ほぼ思春期前に日本人になるのだ。中国ではすでに米国の大学の卒業生(90年代以降)が社会の枢要な地位につき始めているのに対し、日本はいまだに米国の一流大学の学部卒業生が極端に少なく、日本で大卒、就職した後の「大学院留学」がエリートコースとなっている。外人どころか、外国の大学を出た者すら差別される。海外駐在員も、そのためにあえて子弟を日本に帰すほどだ。閉鎖性はそこまで徹底しているのだ。うっかり坂本龍馬になどなるものではない、というわけだ。

グローバルな組織はダイナミズムを重視するが、それは個人の能力と強力なチームワークの融合からしか生まれない。しかし日本の組織はつねに「安定」を重視する。それは人事のローテーションを守ることから生まれると信じている人間が多い。安定すれば、衆に優れ、現場で鍛えられたリーダーシップは不要となり、軽量のリーダーが座る。江戸時代の1世代で、誰もが「実力」を問われる緊張感はほぼ消滅し、家格による身分秩序が成立した。明治維新、第2次大戦によるリセットの後も、ほぼ1世代で、グローバルに通用するリーダーは淘汰されていった。明治以後の身分制は、もちろん封建的主従関係ではなく、「人脈的忠誠関係」に支えられている。人脈は入社年次、出身校、派閥、閨閥、それにたんなるボスの好みで成り立っているが、上層部を形成するインナーサークルには、外人はもちろん、女性も排除される。安定するほど「身分制」は強まり、淘汰の圧力は個性や能力の不足ではなく、過剰に対して働くことになる。

老人支配はどこの国にもあり得る。しかし、日本の老人は地主でも大金持ちでも大株主でもなく、ただの「大サラリーマン!」というのが異常だ。その権力の秘密は、人脈の結節点となっていることで成立している。社員の人事、退職者の「天下り」先に影響力を持てば、責任から自由となり権力だけは行使できる。日本の官僚が「天下り」を必要とするのは、高級老人ホームに送って影響力を断つためだが、民間でトップを極めると子会社に「天下り」もできないので、その猛威は官界の比ではない。この「大サラリーマン」の力は、日本から一歩出たら通用しない。

世界の壁などない、あるのは日本の罠だ

日本では「世界の壁」が存在するかのような意識操作が、繰り返し行われる。海の向こうには弱肉強食、法律万能の世界があり、日本には言葉を使わなくても理解し合える、弛い社会があるというイメージが確認される。龍馬のような人物が必要というわけだ。だがいちばん怖いのは日本であり、実力のない者が「エラい人」として君臨し、法律があまりに恣意的に運用されるような国では、まず「人脈」に頼らないことには、しかるべき組織と話もできず、身を守ることすらままならないのだ。

なぜ海外で通用しない無能なリーダー、ひ弱なエリートたちがますます強力になってきたのか。それは彼らが日本社会全体をカバーする「ネットワーク」の維持に心血を注いできたためである。日本の組織にある「人事」は、多くの場合トップのための諜報機関(つまり「目付」)を兼ねており、リクルーティングから昇進、転任、賞罰、出向、転籍まで自由(つまり説明責任を問われず)に人事一切を操作することができる。誰でも瑕疵を探し出して「責任」を問える点は、「特捜検察」と変わらない。それどころか、日本的大企業を嫌い、市場経済を信じて行動した堀江貴文氏は、日本のひ弱な権力の一角であったフジテレビを買収しようとした途端に、本物の特捜検察に不可解な理由で逮捕された。日本社会には「市場」というグローバルなルールなど、部分的にしか適用されないことを、彼は不用意にも知らなかったのだ。

この国のひ弱な支配者たちは「開国」も「改革」も求めていない。その証拠には、自分の社内、業界内のことに関しては一切の改革・開放も、ガバナンスも認めようとしない。いつもそれを口にしているのは、うっかり真に受けて行動する人間をマークし、泳がせ、外国から持ち込まれる良いものは横取りし、危険があれば必要に応じて溺れさせるためだ。これがひ弱な支配者の生存戦略、「日本の罠」というものだ。これは日本の宿命だと思わないようにしよう。だが、この罠に勝つ方法はあるだろうか。罠が有効である限り、危険地帯に踏み込めばどうにもならない。そして「人脈」が生きている限り、罠は有効だろう。だが何事にも終わりはある。焦らずネットの上から考えようと思う。 (4月29日)

Topics: 今日のひと言 | 5 Comments »

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5 Responses to “「鎖国/開国」論と日本の罠”

  1. Tweets that mention 「鎖国/開国」論と日本の罠 | INTELOGUE -- Topsy.com さんより:
    2010年 4月 30日 at 12:06 AM

    [...] This post was mentioned on Twitter by Hiroki Kamata, Hiroki Kamata. Hiroki Kamata said: まったく自分のブロクを更新してなかったので、最近あちこちで聞く「鎖国・開国」論の胡散臭さについて久々に書い [...]

  2. 小笠原 さんより:
    2010年 4月 30日 at 8:33 AM

    外交姿勢という点で考えてもいいですね。

  3. T.kama さんより:
    2010年 5月 3日 at 11:34 PM

    >鎖国などされてなかった
    目からうろこです。
    考えないことが期待されている教育はあいも変わらずですね。
    息子たちが内向きでこまってしまいます。

  4. 星海風太 さんより:
    2010年 5月 10日 at 3:20 PM

    私が常日頃感じている考えとほぼ一致します。最近NHK教育番組の日曜18:00から放送されている、ハーバード大学マイケル・サンデール教授の講義を視聴しています。その講義の内容は、”JUSTICE”という彼の著作に基づく、『哲学』がテーマになっています。いかに日本人の教授や教師と、彼の授業風景と授業メッソドが違うかがわかります。なにしろ哲学ですから、抽象的な内容が多いのですが、彼は極めて実際的なケースを用例化しながら、ユーモアも交え、わかりやすく講義していきます。最も素晴らしいのは、学生との質疑応答です。ディーベートにも近いレベルで、サンデール教授は、学生に情熱的に問いかけます。『君だったら、このケースはどう考える?徴兵については?幼児売買については?命の値段については?』ここには、知の開国が存在しますね。

  5. admin さんより:
    2010年 5月 10日 at 4:12 PM

    コメント有難うございます。

    自分で「考える」方法と他人に「説明する」方法は対になるもので、青年期までの教育で最大のテーマだと思います。それを受けないと、自我や世間的な立場を前面に出した「議論」しかできない人間になってしまいます。日本人はだいたいそうですね。かくいう私も、それに気がついたのはいい加減な年になってからでした。それでも、昔から(英語は十分下手なのに)外人とのコミュニケーションのほうが日本人相手より楽なのは不思議だったです。サンデール教授の講義は見逃していましたが、まさに「正解」ではなく「考え」「説明」を目的としたとても実践的なものだと思います。

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